このブログはアート・ブログに変わったのかと不審に思われている方もいるかもしれません。
前世紀末、わたしがインターネットを始めた当初は、当然ながら、日本語のサイトしか閲覧していませんでした。けれども、暫く経つと、ほんとうに何処へ行っても孤立する。対立する。
自分でブログというものを始める前に目にし、また実際に参加していたのが、今はなくなってしまった海外のアート系のSNSでした。そこでわたしはシンプルな事実を発見しました。日本語で語れば嫌われる。孤立する。けれども、アートなら皆が好いてくれる。ただし外国人だけですが・・・
わたしは昨年まで日本語で書かれたブログというものを読んだことがありませんでした。限られた少数のブログだけで判断するのは早計かもしれませんが、少なくともわたしが目指すようなブログは見つかりませんでした。
もちろん心の病を持った人たちの文章は参考になるし、慰めにもなります。
この一年間、幾つかの素晴らしブログに出逢うこともできました。
しかしわたしが書き手として目指しているのは、アートと文章がほどよく融合したブログです。ブログを始めてから、ほとんどの年月をアートの投稿に費やしてきました。アートを投稿しながら文章も書く、という経験がありません。
10年間ブログをやってきて、20年以上インターネットをやってきて、その経験から、
「母国語で話せば嫌われる」「真剣に話せば誰も理解できない」そして「わたしのセレクトしたアートを世界中の人が見てくれている」この二つは確信を持って言えることです。それをどのように組み合わせてゆけるのか?
わたしのタンブラーのフォロワーは、世界中どころか、1万4千人ほどですし、
このブログを読んでくれている人も、数名だがいる、という事実もあります。けれども基本的には上の認識は誤りではないと思っています。
「これ」がわたしがはじめて持ったアート・ブログです。
Tumblrと上のブログと、既にアートのブログは2つもあるじゃないか、と言われるかもしれませんが、残念ながら、その両方とも、日本人の閲覧者はいないか、限りなくゼロに近い。
日本でわたしの書いているような極めて私的な文章と、アートのミックスしたブログを読んでくれる人がいるのか?
それを試してみたかったのです。
アートの投稿が増えれば、今いる4~5人の読者でさえ遠ざかってゆくのか?
ということは、例えば日本では、
このような このような そして当時のSNSの友人だった女性のこのようなブログは
見向きもされないのか?そうだとしたらそれは何故か?
このブログが完全にアート・ブログになることはありません。
ただ、今は、日本のインターネットの世界から逃げ出した当時と状況が似ていること。
思考し、それを文章にする気力も体力もないこと。アート探しが純粋にたのしみであり気晴らしであることなどから、アートの比重が大きくなる可能性はあります。
美術館の中に飾ってあるアート以外で繋がれないこと、日本人がネット上のアートにほとんど関心を示さないことを残念に思います。
Takeoさん、こんばんは。
返信削除ぼく自身は、美術に関する限り、鑑賞者としてのとしての視点が希薄な方なので、あえて美術鑑賞をすることは少ないですけど、いまTakeoさんのアート・ブログを拝見した限りでは、日本でも十分に受け入れられる要素はあると思いました。
少なくとも、ある程度若い世代の日本人であれば、受け入れられるものだと思いますよ。
ただ、日本では、有名な人や作品の情報が全くないと、探し当てられる確率が低くなってしまうということはあるような気がします。
たぶん、ネット鑑賞の位置づけが、日本と海外ではだいぶ違うんじゃないかと思います。
自分のことで言うと、ブログと同時にフェイスブックのアカウントをとったんですけど、けっきょく、ほとんど何もしないままに成っていて、いつも、知らない人の名前で『知り合いかも?』っていうお知らせメールが来るだけだったんですね。
初めのうちは、日本人の名前だけだったんです。
それが、ブログを始めてから三年半くらいしたときに、ブログに自分の絵を何件か投稿したんですが、そのとたんに、なぜかわかりませんが、外国人の名前ばかりで『知り合いかも?』のメールが来るようになりました。
タチアナさんとか、アナスタシアさんは知り合いじゃないと思うんですけど、フェイスブックの情報はほとんど更新していないのに、今でもそういうメールだけはけっこうたくさん来たりします。
しかも、日本人の名前で『知り合いかも?』が来ることは、全くなくなってしまいました。
こういうのも、たぶん、日本と海外の間の、ネット鑑賞の位置づけが違うということに原因がるのかな?と思っています。
要するに、海外の人はネット上自体を鑑賞の場と考えているんだと思います。
日本人は、おそらく、ネット上で鑑賞するというよりも、ネット上では、予備知識を得たり、美術館で鑑賞するものを選んだりする人が多いんじゃないかと言う気がしますね。
ぼく自身は、ネット鑑賞には大きな欠点もあると思っていますが(作品の物質としての存在感が失われてしまうというようなことです)、少なくとも、ネット上で「予備知識を得る」とか「見るべき作品を選ぶ」と言うのは、あまりいい方法ではないようにも思っています。
そういうやり方だと、結果的には、名作だけを見て満足してしまうということになるような気がするわけですね。
いずれにしても、アートと文章を融合させるという試みは、十分に価値があるものだと思います。
また、アートの投稿を通じてTakeoさんの文章が引き出されていくということもあるのかな?と思います。
そういう意味で、ぼくはけっこう楽しみですよ。
今でも、このブログは、十分に独自のスタイルを持っていると思いますけどね。
では、また。
こんばんは、ふたつさん。
削除フェイスブックの話、分かるような気がします。ただ、わたしとの大きな違いは、ふたつさんが投稿したのは、ご自分の作品である、と言うことです。
ブログで、SNSで、自分の描いた絵や、自分で撮った(ちゃんとしたカメラで)写真、その他いろんな作品をアップすることは、日本でも珍しくありません。
わたしのような、あるいはわたしが紹介したような、自分の作品ではない「アート」をメインにしているブログをわたしは日本で見たことがありません。SNS然り。
フェイスブックで、確か「アート倶楽部」だったかな(?)アートを通じて仲間になりましょうというコミュニティーに参加したのですが、現実は美術館情報のサークルでした。「そのようなことは書かれていない」と主催者に問い合わせたところ、主催者も、別に美術館の話題のサークルにするつもりはなかったが自然にそうなった、と。
そしてそのサークルの参加者から、「純粋にアートを楽しみたいのなら別のところを探されてはどうでしょうか?ここは飽くまで展示会の情報交換の場ですから」と。
既に主催者の当初の意図から離れて、美術館サイトになっていました。
他のアート系のコミュニティーも、「現在の展示」について全く触れていないところは皆無といっていい。
わたしがフォローしている海外のアート系ブログの書き手は美術館にはいかないのでしょうか?もし行くのなら何故そのことをブログで書かないのでしょうか?
わたしも10年前くらいまでは、週に一度くらいのペースで都内のどこかの美術館に足を運んでいました。けれども、今は行けても行く気がしません。
日本人の多くは、日本語で書かれたサイトでないと遠ざかりますね。
昔のSNSからフェイスブックと、ヨーロッパの人でもわたし程度の英語力の人はいくらでもいますが、彼らはわたしの選んだアートを喜んでくれます。
これからどうなっていくのか、自分でも五里霧中ですが、5人も読者がいてくれれば充分だと思いますし、いなきゃいないでそれもしょうがありません(苦笑)
再び失礼します。
返信削除前のコメントで書き忘れたんですが、Takeoさんは、ご自分が「創作者タイプ」なのか、「鑑賞者タイプ」なのか、それとも「批評者タイプ」なのか、ということは考えますか?
ぼくは、「肯定的に見る人」を「鑑賞者」、「批判的に見る人」を「批評者」ということにしています。
ぼくは、「美術」に関しては、ほぼ「創作者」ですが、「批評者」の視点もあります、「鑑賞者」としての視点は希薄です。
「音楽」に関しては、完全に「鑑賞者」オンリーです。
楽器ができるようになったことは一度もありませんし、批評的な感覚で音楽を聴くことも、まず、ありませんね。
それから、「文学」に関しては、三者ともダメです。
この記事とは、あまり関係ないですが、もし、良かったら考えてみてください。
では、また。
う~ん、どうでしょうか。
削除例えば芥川龍之介などは作品を書くときに参考にする本を傍に山のように積んでいたといいます。そちらかというとわたしもそういうタイプだと思います。何か触媒がないと書けない。
わたしはアートや、音楽は好きなものしか聞かない見ないというところがありますので、あまり批評的になることはありません。
言葉や文章に対しては批判的になっているかもしれません。
自己表現の方法としては、「異論」という形が多いと思います。
コメントをありがとうございました。
良い週末を。