2019年3月28日

襤褸の旗Ⅱ


わたしは今日も、「いったい何のために生きているのか?」「何故さっさとこんな醜悪な世の中から出て行かないで、ぐずぐずととどまり、生き続けているのか?」「お前の生き(てい)る意味とは何だ?」
と自問しています。

一方で、「あなたたちはどうしてこんなくだらない世の中で、襤褸布のような服を纏い、ごみ箱を漁ってまで生き延びようとするのか?何のためにそうまでして「生」に噛り付くのか?」
下に投稿した写真の中の子供たちに、また世の無宿者、障害者たちに対し、わたしはそういう気持ち、疑問を、そもそも持ち得ません・・・どうかあなたの生を慈しんでください、今日一日、温かいスウプにめぐり合えますように、安らかな眠りが訪れますように・・・彼らに彼女たちに対するわたしの思いはそれだけです。

何故「彼らの生は生きるに価し」、わたしや、デジタル社会に頭のてっぺんからどっぷり漬かった人間の生は「生きるに価しない生」であるのか?その説明は、わたしにはできません。敢えて理由らしきものを見出そうとするなら、それは前にも書いたように、わたしは美に拝跪する者だから。「美」こそが、わたしの信仰だから・・・

だからこそ、この世界から、「戦争」と「スマホ」と、どちらがなくなればいいか?という問いに答えることができない。

ホームレスや障害者の生が、弱き者、病める者、貧しき者たちの生が、モーツァルトと同じくらい美しく荘厳であるのと同様に、スマホやタブレット、電子書籍は、戦争による殺戮・放火・強姦・略奪・・・即ちあらゆる種類の「暴力」と、まったく等しく愚劣で醜いと感じるからです・・・

蛇足ですが、何故わたしは天国を嫌うのか?そこにはおそらく、モーツァルトもバッハの音楽もないからです。何故ならそれらは、悲しみへの、苦しみへの、生の苦悩への慰謝であり慰撫であるから。悲しみも悩みもないところに芸術は、文学は無用です・・・


ー追記ー

下のファーガス・バークの写真の投稿について、ふたつさんから、いつものように、考えさせられるコメントを頂きました。
仰っていることに基本的には同感ですが、もう少しきちんと考えてお返事をしたいので、少し時間を下さい。またそもそも今のわたしは他人に通じる言葉を話す(書く)ことができません。




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