2019年3月29日

生とは選択の集大成である


27日の投稿に、ふたつさんからコメントを頂きました。
それに対する返事について。

『「生きること」は、ある意味で、「試されること」だと思いますし、「長生き」は「試される機会が増える」と言う考え方をしているんです。』

ここでわたしとふたつさんの考え方が異なるのは、「長生き」は「試される機会が増える」のではなく、日々試される過程の中で、常に生き延びる選択をしてきた結果が、長く生きているということではないか、ということです。

辺見庸の引用した、シオランの「誰もが夭折の幸運に恵まれているわけではない」にしても、辺見自身の述懐である「一般に長生きの芸術家や革命家ほど、いたく失望させられるものはない」にしても同じで、わたしたちには、「これ以上は生きない」という選択をする自由があるのです。

わたしはスマホやタブレットに対し、さんざん悪態をついています。仮に誰か、そういうものと一切縁のない人から、「そんなこと言いながら、あんただってパソコンでインターネットやってるじゃないか」と言われれば、返す言葉はありません。それは堕落じゃないのかと言われれば、迷いなく「堕落です」と答えるでしょう。

パソコンやスマホがなければ日常生活が送れないのなら、それがなければ生きられない=生きさせない世界であるなら、わたしはそんな世界に留まりたくはない。わたしはそこで試されます。
石原吉郎の言葉を借りれば、「精神の生」を選ぶか「肉体の生」を選ぶかの帰還不能点=ポイント・オブ・ノーリターン。

今でさえ、わたしは、「一体外の世界に何があるのか?」と訝ります。

今、この世界に生きていること、それはわたしが敗北者であることを意味します。
生きていることが「死」を意味する形で、わたしは今、この地上に存在しています。
そして世界は更にさらに変化し続けるでしょう。その時には最早敗北者ではいられないのです。スマホはともかく、最低でも携帯電話くらい持っていないと現実に生活できないというのなら、わたしは「生活」を、携帯乃至スマホに依拠する生を拒否、放棄します。






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