2019年3月27日

Fergus Bourke / ファーガス・バーク


アイルランドのフォトグラファー、ファーガス・バーク (1934-2004)の写真です。
ひとつひとつの写真についての詳しい解説は見つけることができませんでしたが、年代はどれも1960年代後半。おそらくは2枚目の写真がそうであるようにダブリンが舞台だろうと思います。

わたしはなにか、いつも死ぬことばかりを考え、またそのようなことを言い、書きしている人間ですが、これらの写真を視ていると、(どうしても言葉にすると軽くなりますが)生きることの荘厳さのようなものを感じます。胸を衝かれます。
生きることの、うつくしさ、重さを感じます。

彼の写真を、例えば誰かと、東京都写真美術館などで観たとしたら、わたしは隣にいる人に向かってどんな感想を漏らすでしょう。「うつくしいね」「きれいだね」・・・そんな言葉しか思い浮かびません。

わたしはしばしば、饒舌はアートを穢すと感じています。

わたしはこの写真に写されている彼ら彼女らを抱き締めたい衝動に駆られます。
最近は「HUG」「抱き締める」「抱擁」そんな言葉が、よく出てくるようになりました。
それは「言葉」の虚しさ、空々しさへの反発、反動なのかもしれません。

「どん底」の生活をしていても、その姿を視るわたしの目には、「ああ、ここに生きた人間がいる」という思いが抑えがたく湧き上がってきます。「ホンモノの人間がいる」と。

それに対して・・・いや、電車やホームでスマホに魂(Soul)を抜き取られた人間は、ほんとうに生きているのか?というようなことを言うのはよしましょう。
所詮相容れざる者同士。「彼らにだって、悩みも苦しみもあるし「内面」がないようなことを言うな」といわれても、わたしの耳には届かないのだから・・・

生きることに必死である彼らに、彼らの生の重さに、ただ頭(こうべ)を垂れるばかりです。そしてこう自問します。
「お前は死ぬ前に、一度でも彼らのように、ほんとうに生きたことがあったか?」

彼らの生のリアリティーの前では、シオランの「生まれてきたことが敗北なのだ」などという賢しらな言葉が、羽毛のように軽く感じられるのです。

むかしから「人生生きるに価するか?」という哲学的な問いが存在しました。
「彼ら、彼女らのような人たちがいる限り・・・」という悲しいアイロニーがわたしの答えです。
「彼らのような人たちがいなくなるように」という考えにわたしは与しません。
「すべての人が幸せである世界」にわたしはとても生きることはできません。

彼らの生、彼らの姿は、モーツァルトのオラトリオとまったく等しくうつくしい。
そのような彼ら、彼女たちがいない世界に、わたしが生きられるとは思えないのです。



◇    


The Bottle Throwers 1968



Pickaroon, Dublin 1966

Untitled 1968



and 





Mozart Ave Verum Corpus kv. 618 Leonard Bernstein Conducted 1990
1791年、モーツァルト死の年に作られた アヴェ・ヴェルム・コルプス K.618




3 件のコメント:

  1. こんにちは。

    この前のコメントの続きのような話になりますが、ぼくは、「生きること」や「長生き」について、少し違う考えを持っています。

    「生きること」は、ある意味で、「試されること」だと思いますし、「長生き」は「試される機会が増える」と言う考え方をしているんですね。

    たとえば、Takeoさんは勲章のような「社会的権威」を受け取った人を好きになれないと書いていたことがあったと思いますが、それについては、ぼくも同じ考えです。

    でも、若死にした人間は、それを試されていません。

    つまり、早く死んでしまった人が、その後、長く生きていたら、勲章を受け取ってしまったのかもしれないということです。

    それが試されていないために、『美しく見えている』というのと、試された結果として「生きたこと」の「年月が提示しているモノ」のどちらを取るか?と言うのは、難しいですが、ぼくは「生きたこと」で、たとえ「美しさ」を失ったとしても、そこに、わずかでも「その人の、迷いモガク姿」が見えさえすれば、それを「美しい」と感じるわけですね。

    ぼくにとっての「純粋さ」や「美しさ」とは、対極にある「穢れ」や「醜さ」とセットに成っていて、その中で「人が何かを模索する姿」こそが、今、ぼくに「美しい」と言えるものなんだと思います。

    でも、もちろん、この写真も美しいですし、この写真の中の子供たちの姿に惹きつけられる気持ちもあります。
    こちらには「理屈」などいらないと思います。

    では、また。

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  2. こんばんは、ふたつさん。

    >「生きること」は、ある意味で、「試されること」だと思いますし、「長生き」は「試される機会が増える」と言う考え方をしているんですね。

    そうですね。生きるということは、選択の連続、蓄積ですから、何を選択するか、それはその人の価値観を問われることになるでしょう。

    >早く死んでしまった人が、その後、長く生きていたら、勲章を受け取ってしまったのかもしれないということです。

    まあそういうことがほとんどですね。残念ながら。
    だから辺見庸は、「誰もが夭折の幸運に恵まれているわけではない」というシオランの言葉を引用したり、「一般に長生きの芸術家や革命家ほどいたく失望させられるものはない」と言ったりするのでしょう。
    長生きしながら、長いものに巻かれない不逞の輩でい続けるということは本当に難しいことのようです。だから極論すれば、成功しちゃダメなんですね。

    わたしが知る限り、勲章を打診されて辞退した人は、山本周五郎、(この人は賞という賞を断っています。そして「芸術家に位階は相応しくない」と文化勲章を辞退した北大路魯山人、それからウンダーグラウンドという立場から渋々といった形で辞退した唐十郎。
    そんなところです。

    結局それまで何をやってきても、お国と懇ろになった時点で「百日の説法屁ひとつ」全ておじゃんです。
    あ、勲章辞退者、他にもいましたね、セゾングループ会長だった堤清二、宮澤喜一、城山三郎・・・

    勲章や褒章をもらって喜んでいる姿って、あさましく見苦しいですね。

    >「生きたこと」で、たとえ「美しさ」を失ったとしても、そこに、わずかでも「その人の、迷いモガク姿」が見えさえすれば、それを「美しい」と感じるわけですね。

    長生きが醜いわけではありません。何か得意になっている、自信に満ちている、つまり「迷いのない姿」は年齢性別問わず、美の対極にあるということです。

    >「純粋さ」や「美しさ」とは、対極にある「穢れ」や「醜さ」とセットに成っていて、その中で「人が何かを模索する姿」こそが、今、ぼくに「美しい」と言えるものなんだと思います。

    それはその通りです。「穢れのない美」「醜さの欠けた美」というものは真の美とは言えないでしょう。汚れているから、欠けているから美しいのです。

    基本的にはふたつさんと大差ないと思います。









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  3. こんにちは。
     
    とても気持ちのいい返信を、ありがとうございました。

    それでは、また。

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