2019年3月3日

二十分…


生きることもできず、またひとおもいに死ぬこともかなわずに、こうして一日一日をなんとかかんとか乗り越えている。
生きることも死ぬこともできないということは、わたしは、言葉の本来の意味で「生きてもいない」し「まだ死んでもいない」という極めて中途半端な状態にある。

「できるできないは別にして、どうしたいのか?どうありたいのか?」

そのように訊かれれば、1970年代は無理としても、せめて2000年代初頭=(15年~20年前)に戻りたい。今答えられるのはそれだけのような気がする。

無理をしても外に出る必要があることはわかっている。けれども、「外に出る」ということは、わたしにとって、文字通り「砂を噛む」ような索漠荒涼たる気持ちを伴うのだ。
そんな気持ちで外を歩いていると、「なぜわたしはいまこうして生きているのか?」という疑問が否応なく湧き上がってくる。

「良くなりたいという気持ちはないのか?」「自由に外に出られるようになりたいとは思わないのか?」と詰め寄られれば、これまでの答えを繰り返すことしかできない。

「良くなる」とはどういうことか?

「良くなる」となにが変わるのか?

「外の世界に何があるというのか?」

結局誰かが、わたしにはおそらく決して解けない謎・・・「健康」とは?「良くなる」とは?「外に出られる」とは、何を意味するのかを教えてくれるまで、この状態は続くのだろう。
とは言え、精神も、肉体も、確実に、着実に崩壊しつつあるのだが・・・

たかだか20分の苦痛が我慢できないなんて!


ー追記ー

「砂を噛むような思いをせずに外に出られるようになれる」

「健康とは何かとか、良くなる、元気になるとはどういうことかなんてことをそもそも考えなくなるようになりたいとは思わないか?」

・・・だがそれは「死」とどう違うのか?











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