必要なもの=欠けているものこんにちは、Nicoさん。前から何となく感じていた事が有ります。それは、Nicoさんの記述に相手の心情を思ったり、察したりする様な言葉が表れない事です。Nicoさんはこの事についてどう思われますか?たぶん、Nicoさんは“何の事?”と訝ってしまうのでは無いかと想像します。もし当たっていれば、脳に欠陥があると思います。全盲の人が、光がどんなものか分からないのと同じと思います。
こんばんは、yy8さん。仰ってることがよくわかりませんが、わたしの脳だか精神だか、心だかに欠陥があることは誰もが知っていることです。別に居直るわけではありませんが、じゃあそもそもそのような欠陥のない人って存在するのでしょうか?いや、訂正します。欠陥のある人の方が圧倒的多数ではないでしょうか?「狂っていないというのなら、それはまた別の形で狂っているだけで、それほどまでに人は誰しも狂っている」というパスカルの言葉を思い出します。「全盲の人には光がどんなものかわからない・・・」全盲の人に「光」は存在するのでしょうか?丁度わたしにとって「愛」が見えないのではなく、わたしには「愛」というものが存在しないのと同じように。
追伸人を引き合いに出すわけじゃありませんが、以前フェイスブックで瀬里香さんが、「yy8さんて、時々シレッと無礼なこと言うよね」と言っていましたね。わたしは基本的に優しくありません。思いやりに欠けた人間です。ですから、親になるという重大な罪を犯すことが無かったことだけはよかったと思っています。このようにひとはそれぞれ、どうしても相寄れないものを持っています。ましてわたしは自分が本当に人間なのかと訝るほど、誰とも通じません。
>脳に欠陥があると思います。・・・か。医者でもないのに脳に欠陥があるという人もいれば、何処かのブログの茶坊主のようにやたらと阿るやつもいる。やはり人はみな何らかの形でおかしい=狂っている。
Nocoさん、おはようございます。どうやら、私の言いたかったことが、私の思いが伝わらなかったように思います。だいぶ前の事ですが、朝の眼ざめの時に寝相が悪かったのか、或いは別に現認があったのか分かりませんが、腕の感覚がまったくなくなってしまっていることがありました。一度は両腕が、そして二度目の時は片腕の感覚がまったくないのです。その片腕の時に、一方の動く手で感覚のなくなった手を触ってみたのですが、当たり前の事ですが、何も感じないのです。腕が無い、と云った感じでした。でも、時間と共にだんだんと弱いしびれから、はっきりとしたしびれに代わってきて、感覚はもとに戻りましたが。こんなふうに、腕はあるのに全く感覚がなくなると“無い”状態になってしまうのです。脳には記憶をつかさどる部署とか、情を感じる部分とかあるようです。それに照らしてみれば私の脳ば、記憶力が平均より相当劣っていて記憶を担当するある部分の働きが鈍いからだと思っています。想像力もほとんどありません。だから、街や自然の風景はただ、ぼんやりと思い出せるだけなのです。宅配業に就く人達は、知的労働は不向きな人が多いですが、それでも記憶力の良い人が多く、みんなその日の出来事を事細かく話す事が出来て、私はいつも感心しながら聞き、そして自分の記憶力の弱さを痛感します。Nicoさんは、私より相当頭の良い人ですから、私の云おうとすることが分かると思うのですが?
こんにちは、Blueさん。毎日ここを見てます。Blueさんにはアートと音楽が必要なのだろうなあと思ひつつ。必要とするものがある、というのは何て素敵なんだろ。わたしは生活費と老後の資金が必要なのでお給料のもらえる仕事を必要としてゐます。他の時間は何に対しても興味を持つことがなく、とにかく何もしていません。つまり自分の必要を満たすために動くこともありませんし、そもそも自分は何を必要としているのか考える気力すらありません。最近は自転車通勤する際に、沈丁花が咲いてゐたりツクシが生えていたりして、幸運だなあと思ふことがわずかにあるくらいです。自分からは動かない生活をして退屈していた結果、お酒と食事と睡眠ばかりが今のわたしの必要になつてしまひ、半年で体重が8kg増えてしまいました。苦笑。中年太り。今51kg。そういえば、いつだったかの、ぽってりした厚みのある貌の絵、美しいとは思わなかったけれど、表情が豊かで、わたしは好きですよ。綺麗なところばかり見て綺麗なところばかり描くのではない、作者の観察眼と表現力が好きです。貌の絵。
こんばんは、瀬里香さん。>Blueさんにはアートと音楽が必要なのだろうなあと思ひつつ。必要とするものがある、というのは何て素敵なんだろ。アートと音楽。それは瀬里香さんにとってのお酒やタバコと同じで、生きているという苦痛から一時でも逃れる手段です。絵や写真、音楽に触れているときには生きていることを忘れられる。生きるって、結局生きていることを忘れる営み・・・なのかもしれません。瀬里香さんが、仕事以外は本当になんにもしていないということは、不謹慎ですが、わたしにとっては慰めです。わたしにはアートと音楽だけ。瀬里香さんには仕事だけ。どちらもバランスを欠いた生き方です。でもそうしか生きられない。仕事も趣味も。なんていうのは、とうていわたしと同じ生き物ではありません(苦笑)春の沈丁花、秋の金木犀は季節を感じさせてとても好きでした。まだその香りを愛でられるなんてうらやましいです。わたしも寝ることと食べることしかしていませんからね。右に同じです。完全なデブです。それでも51キロ?わたしは80キロ超えてますよ(笑)フランク・アウエルバッハのポートレイトですね。美しくないからいいですね。なんか、ああいう「はみ出た」感じ、「過剰なところ」に惹かれます。気に入ってもらえてよかった。それから、今使っている写真、とても気に入っているので、できればこのまま使い続けてもらえると嬉しいです。コメントをありがとう。
追記。完全な球体のような丸くて丸くて丸い人はまず居ません。みんなどこか凸凹しています。わたしは凸凹の程度が激しいので障害者と呼ばれてゐます。
>完全な球体のような丸くて丸くて丸い人・・・には興味はありませんね。そういう人は酒もたばこもアートも詩もいらないでしょうから。>わたしは凸凹の程度が激しいので障害者と呼ばれてゐます。わたしも同じです(笑)
Takeoさん、ヒロさん、こんにちは。ぼくは、Takeoさんが、人の心を察しない人だとは思わないですよ。むしろ、強く感じすぎてしまうところがあるように思います。少なくとも、Takeoさんは、「弱い立場にある者」に対するときは、常に最大限の配慮をしているように見えます。ただ、相手が「強い者」や「上位にある者」であったときには(場合によっては対等でも)、その配慮が裏返った形で現れるんじゃないかと思います。そして、それがTakeoさんの中の「自分」と対立したときには、かなり徹底的に否定するということだと思います。「脳の欠陥」と言うのは、もっとはっきりした「脳障害」のあるケースに対して言うことじゃないかと思いますよ。(「身体の一部としての脳」に欠陥があるというような)たとえば、「サイコパス」と言われる人がいて、そういう人には特徴的な思考パターンや、脳の働き方があると言われているようですが(人に共感できないと言うような)、それでも、そういうパターンが、犯罪や、反社会性に結びつくとは限らないと言われているみたいで、そういう「サイコパス脳」を持った人の中にも、いろいろな人がいるようです。そうなると、それは「ある種の個性」ということであるわけですから、「脳の欠陥」とは言えないと思います。そういうのは、脳科学者なども、本当にわかって言っていることばかりでもないような気もしますし。もともと、「正常と異常」や「健全と病気」を分けている境界線と言うのは、社会にとっての都合で引かれている線ですから(と言うか、それらの言葉の意味がそういう意味だと思います)、そういう「社会適合性」を、それよりもはるかに複雑な意味での「人間性」や「善悪」のような規準と、同じように考えるのは無理があるような気がします。それから、「明らかに正常」な人でも、「明らかに異常」なことをすることもあります。ぼくは、「異常な人が異常なことをすること」と「正常な人が異常なことをすること」であれば、後者の方が、はるかに「異常」だと思います。つまり、本当の意味での「異常」とは、「その人の本質から逸脱した行為」のことだと思います。ライオンがシマウマを食い殺しても「正常」ですが、「人間」がシマウマを食い殺せば「異常」ということではないでしょうか?ぼくは、Takeoさんは「自分であること」を人並外れて強く意識する人なんだと思います。それは、どちらかと言えば、「本質に忠実であること」でしょうから、「異常」とは言えないのかもしれません(ぼくはそう思います)。しかし、その「忠実さ」が、行き過ぎると、裏返って「本質」を逸脱しようとします。そういう時に、Takeoさんの中に「異常性」が発生することはあるでしょう。でも、それは、どんな人にも常に起こり得ることであって、本来の「異常」とは言えません。全ての人が「チガウ」ということを、「社会」が「異物」と判断するだけですから。そういう時に、その「社会」に属している人は、それを「異常」と感じるというだけのことだと思いますよ。話が長くて、すいません。それから、ヒロさんやTakeoさんのおっしゃることに反論するという意味でもありませんから、アシカラズ。それでは、また。
こんばんは、ふたつさん。>少なくとも、Takeoさんは、「弱い立場にある者」に対するときは、常に最大限の配慮をしているように見えます。わたしは優しくないし、思いやりに欠けた人間だと思っています。言い換えれば鈍感なんでしょう。わたしはただ、いわゆる弱い人たちが、その存在として、強い者たちよりも「上」であり、また、強いことは醜いことであるという美意識を持っているだけです。つまり彼らは「弱いからこそ美しく高貴である」と。ですから、ホームレスから社長になったなんて話にはとても「よかったね」という気持ちにはなれません。「弱いままでいてくれ」「虐げられたままでいてくれ」とは言いません。暴動、一揆、大歓迎です。西部邁、辺見庸、政治的なスタンスは正反対ですが、どちらも自爆テロに喝采を送った。わたしも同じです。要は強さ、強い者というのが嫌いなのです。何故か?美しくないからです。>「サイコパス脳」を持った人の中にも、いろいろな人がいるようです。そうなると、それは「ある種の個性」ということであるわけですから、「脳の欠陥」とは言えないと思います。この意見には全く同感です。「明らかに正常な人」なんているのでしょうか?仮にある人の「常態」から逸脱した言動を「異常」としても、正常な人、異常な人という存在はなく、あるのは、「多数派正常の原則」からはみ出した「行為」だけではないのかと。>本当の意味での「異常」とは、「その人の本質から逸脱した行為」のことだと思います。わたしがスマホを持てば、明らかにそれは異常ですね(笑)わたしは「正常でありたい」「正常になりたい」「正常に見られたい」とは思いません。「異常」「異端」で構いません。正常云々よりも大切なのは、わたしがわたしであることです。コメントをありがとうございました。こちらもしばしば反論めいたことを言いますが、まぁ聞き流してください。馬鹿正直なだけです。
嗚呼「鈍感力」。この「能力」を持っていないと生きてゐられません。鈍感力と云う能力(武器)のゆえ、知らずに人を傷つけてゐる場合もありましょうが。
わたしは必要なところは鈍感で、不要なところで過敏で困ります。「人は強くなければ生きて行けないやさしくなければ生きて行く資格がない。」昔はこういう言葉(レイモンド・チャンドラー)がCMに使われていたんですね。鈍感でなければ生きて行けないしまして幸せであることなどとてもできない。それが生きるということか・・・
必要なもの=欠けているもの
返信削除こんにちは、Nicoさん。
前から何となく感じていた事が有ります。
それは、Nicoさんの記述に相手の心情を思ったり、察したりする様な言葉が表れない事です。
Nicoさんはこの事についてどう思われますか?
たぶん、Nicoさんは“何の事?”と訝ってしまうのでは無いかと想像します。
もし当たっていれば、脳に欠陥があると思います。
全盲の人が、光がどんなものか分からないのと同じと思います。
こんばんは、yy8さん。
削除仰ってることがよくわかりませんが、わたしの脳だか精神だか、心だかに欠陥があることは誰もが知っていることです。別に居直るわけではありませんが、じゃあそもそもそのような欠陥のない人って存在するのでしょうか?
いや、訂正します。欠陥のある人の方が圧倒的多数ではないでしょうか?
「狂っていないというのなら、それはまた別の形で狂っているだけで、それほどまでに人は誰しも狂っている」というパスカルの言葉を思い出します。
「全盲の人には光がどんなものかわからない・・・」
全盲の人に「光」は存在するのでしょうか?
丁度わたしにとって「愛」が見えないのではなく、わたしには「愛」というものが存在しないのと同じように。
追伸
返信削除人を引き合いに出すわけじゃありませんが、以前フェイスブックで瀬里香さんが、
「yy8さんて、時々シレッと無礼なこと言うよね」と言っていましたね。
わたしは基本的に優しくありません。思いやりに欠けた人間です。ですから、親になるという重大な罪を犯すことが無かったことだけはよかったと思っています。
このようにひとはそれぞれ、どうしても相寄れないものを持っています。
ましてわたしは自分が本当に人間なのかと訝るほど、誰とも通じません。
>脳に欠陥があると思います。・・・か。
削除医者でもないのに脳に欠陥があるという人もいれば、
何処かのブログの茶坊主のようにやたらと阿るやつもいる。
やはり人はみな何らかの形でおかしい=狂っている。
Nocoさん、おはようございます。
削除どうやら、私の言いたかったことが、私の思いが伝わらなかったように思います。
だいぶ前の事ですが、朝の眼ざめの時に寝相が悪かったのか、或いは別に現認があったのか分かりませんが、腕の感覚がまったくなくなってしまっていることがありました。一度は両腕が、そして二度目の時は片腕の感覚がまったくないのです。
その片腕の時に、一方の動く手で感覚のなくなった手を触ってみたのですが、当たり前の事ですが、何も感じないのです。腕が無い、と云った感じでした。でも、時間と共にだんだんと弱いしびれから、はっきりとしたしびれに代わってきて、感覚はもとに戻りましたが。
こんなふうに、腕はあるのに全く感覚がなくなると“無い”状態になってしまうのです。
脳には記憶をつかさどる部署とか、情を感じる部分とかあるようです。それに照らしてみれば私の脳ば、記憶力が平均より相当劣っていて記憶を担当するある部分の働きが鈍いからだと思っています。想像力もほとんどありません。だから、街や自然の風景はただ、ぼんやりと思い出せるだけなのです。
宅配業に就く人達は、知的労働は不向きな人が多いですが、それでも記憶力の良い人が多く、みんなその日の出来事を事細かく話す事が出来て、私はいつも感心しながら聞き、そして自分の記憶力の弱さを痛感します。
Nicoさんは、私より相当頭の良い人ですから、私の云おうとすることが分かると思うのですが?
返信削除こんにちは、Blueさん。毎日ここを見てます。
Blueさんにはアートと音楽が必要なのだろうなあと思ひつつ。
必要とするものがある、というのは何て素敵なんだろ。
わたしは生活費と老後の資金が必要なので
お給料のもらえる仕事を必要としてゐます。
他の時間は何に対しても興味を持つことがなく、
とにかく何もしていません。
つまり自分の必要を満たすために動くこともありませんし、
そもそも自分は何を必要としているのか考える気力すらありません。
最近は自転車通勤する際に、
沈丁花が咲いてゐたりツクシが生えていたりして、
幸運だなあと思ふことがわずかにあるくらいです。
自分からは動かない生活をして退屈していた結果、
お酒と食事と睡眠ばかりが今のわたしの必要になつてしまひ、
半年で体重が8kg増えてしまいました。苦笑。中年太り。今51kg。
そういえば、いつだったかの、ぽってりした厚みのある貌の絵、
美しいとは思わなかったけれど、
表情が豊かで、わたしは好きですよ。
綺麗なところばかり見て綺麗なところばかり描くのではない、
作者の観察眼と表現力が好きです。貌の絵。
こんばんは、瀬里香さん。
削除>Blueさんにはアートと音楽が必要なのだろうなあと思ひつつ。
必要とするものがある、というのは何て素敵なんだろ。
アートと音楽。それは瀬里香さんにとってのお酒やタバコと同じで、生きているという苦痛から一時でも逃れる手段です。絵や写真、音楽に触れているときには生きていることを忘れられる。
生きるって、結局生きていることを忘れる営み・・・なのかもしれません。
瀬里香さんが、仕事以外は本当になんにもしていないということは、不謹慎ですが、わたしにとっては慰めです。
わたしにはアートと音楽だけ。瀬里香さんには仕事だけ。
どちらもバランスを欠いた生き方です。でもそうしか生きられない。
仕事も趣味も。なんていうのは、とうていわたしと同じ生き物ではありません(苦笑)
春の沈丁花、秋の金木犀は季節を感じさせてとても好きでした。
まだその香りを愛でられるなんてうらやましいです。
わたしも寝ることと食べることしかしていませんからね。右に同じです。完全なデブです。
それでも51キロ?わたしは80キロ超えてますよ(笑)
フランク・アウエルバッハのポートレイトですね。
美しくないからいいですね。なんか、ああいう「はみ出た」感じ、「過剰なところ」に惹かれます。
気に入ってもらえてよかった。
それから、今使っている写真、とても気に入っているので、できればこのまま使い続けてもらえると嬉しいです。
コメントをありがとう。
追記。
返信削除完全な球体のような丸くて丸くて丸い人はまず居ません。
みんなどこか凸凹しています。
わたしは凸凹の程度が激しいので障害者と呼ばれてゐます。
>完全な球体のような丸くて丸くて丸い人・・・には興味はありませんね。
削除そういう人は酒もたばこもアートも詩もいらないでしょうから。
>わたしは凸凹の程度が激しいので障害者と呼ばれてゐます。
わたしも同じです(笑)
Takeoさん、ヒロさん、こんにちは。
返信削除ぼくは、Takeoさんが、人の心を察しない人だとは思わないですよ。
むしろ、強く感じすぎてしまうところがあるように思います。
少なくとも、Takeoさんは、「弱い立場にある者」に対するときは、常に最大限の配慮をしているように見えます。
ただ、相手が「強い者」や「上位にある者」であったときには(場合によっては対等でも)、その配慮が裏返った形で現れるんじゃないかと思います。
そして、それがTakeoさんの中の「自分」と対立したときには、かなり徹底的に否定するということだと思います。
「脳の欠陥」と言うのは、もっとはっきりした「脳障害」のあるケースに対して言うことじゃないかと思いますよ。
(「身体の一部としての脳」に欠陥があるというような)
たとえば、「サイコパス」と言われる人がいて、そういう人には特徴的な思考パターンや、脳の働き方があると言われているようですが(人に共感できないと言うような)、それでも、そういうパターンが、犯罪や、反社会性に結びつくとは限らないと言われているみたいで、そういう「サイコパス脳」を持った人の中にも、いろいろな人がいるようです。
そうなると、それは「ある種の個性」ということであるわけですから、「脳の欠陥」とは言えないと思います。
そういうのは、脳科学者なども、本当にわかって言っていることばかりでもないような気もしますし。
もともと、「正常と異常」や「健全と病気」を分けている境界線と言うのは、社会にとっての都合で引かれている線ですから(と言うか、それらの言葉の意味がそういう意味だと思います)、そういう「社会適合性」を、それよりもはるかに複雑な意味での「人間性」や「善悪」のような規準と、同じように考えるのは無理があるような気がします。
それから、「明らかに正常」な人でも、「明らかに異常」なことをすることもあります。
ぼくは、「異常な人が異常なことをすること」と「正常な人が異常なことをすること」であれば、後者の方が、はるかに「異常」だと思います。
つまり、本当の意味での「異常」とは、「その人の本質から逸脱した行為」のことだと思います。
ライオンがシマウマを食い殺しても「正常」ですが、「人間」がシマウマを食い殺せば「異常」ということではないでしょうか?
ぼくは、Takeoさんは「自分であること」を人並外れて強く意識する人なんだと思います。
それは、どちらかと言えば、「本質に忠実であること」でしょうから、「異常」とは言えないのかもしれません(ぼくはそう思います)。
しかし、その「忠実さ」が、行き過ぎると、裏返って「本質」を逸脱しようとします。
そういう時に、Takeoさんの中に「異常性」が発生することはあるでしょう。
でも、それは、どんな人にも常に起こり得ることであって、本来の「異常」とは言えません。
全ての人が「チガウ」ということを、「社会」が「異物」と判断するだけですから。
そういう時に、その「社会」に属している人は、それを「異常」と感じるというだけのことだと思いますよ。
話が長くて、すいません。
それから、ヒロさんやTakeoさんのおっしゃることに反論するという意味でもありませんから、アシカラズ。
それでは、また。
こんばんは、ふたつさん。
削除>少なくとも、Takeoさんは、「弱い立場にある者」に対するときは、常に最大限の配慮をしているように見えます。
わたしは優しくないし、思いやりに欠けた人間だと思っています。言い換えれば鈍感なんでしょう。
わたしはただ、いわゆる弱い人たちが、その存在として、強い者たちよりも「上」であり、また、強いことは醜いことであるという美意識を持っているだけです。
つまり彼らは「弱いからこそ美しく高貴である」と。
ですから、ホームレスから社長になったなんて話にはとても「よかったね」という気持ちにはなれません。
「弱いままでいてくれ」「虐げられたままでいてくれ」とは言いません。暴動、一揆、大歓迎です。
西部邁、辺見庸、政治的なスタンスは正反対ですが、どちらも自爆テロに喝采を送った。わたしも同じです。
要は強さ、強い者というのが嫌いなのです。
何故か?美しくないからです。
>「サイコパス脳」を持った人の中にも、いろいろな人がいるようです。
そうなると、それは「ある種の個性」ということであるわけですから、「脳の欠陥」とは言えないと思います。
この意見には全く同感です。
「明らかに正常な人」なんているのでしょうか?
仮にある人の「常態」から逸脱した言動を「異常」としても、正常な人、異常な人という存在はなく、あるのは、「多数派正常の原則」からはみ出した「行為」だけではないのかと。
>本当の意味での「異常」とは、「その人の本質から逸脱した行為」のことだと思います。
わたしがスマホを持てば、明らかにそれは異常ですね(笑)
わたしは「正常でありたい」「正常になりたい」「正常に見られたい」とは思いません。「異常」「異端」で構いません。正常云々よりも大切なのは、わたしがわたしであることです。
コメントをありがとうございました。
こちらもしばしば反論めいたことを言いますが、まぁ聞き流してください。
馬鹿正直なだけです。
嗚呼「鈍感力」。
返信削除この「能力」を持っていないと
生きてゐられません。
鈍感力と云う能力(武器)のゆえ、
知らずに人を傷つけてゐる場合もありましょうが。
わたしは必要なところは鈍感で、不要なところで過敏で困ります。
削除「人は強くなければ生きて行けない
やさしくなければ生きて行く資格がない。」
昔はこういう言葉(レイモンド・チャンドラー)がCMに使われていたんですね。
鈍感でなければ生きて行けないしまして幸せであることなどとてもできない。
それが生きるということか・・・