2019年4月1日

死を前に書くということⅡ


最後の最後を間近に、無理をして人に、誰でもいい、誰かに好かれるよりも、この世界の誰一人わたしを好きになれなくとも、「わたし」でありたい。そうすることによって自分がすきになるということとは別で、わたし自身もやはり、最後まで自分を好きになれないだろう。

このブログには、ほぼ、ありのままの自分・・・つまり相当に反・社会的な部分や、厭世観、厭人観など、包み隠さず出していると思う。それでも「わたし」というものの8割程度は表出されているかというと疑問だ。
ただ、わたしにはこのようにしか書けない。

最近始めた「エロ・グロ」ブログに関しては、正直まだまだという感じ。バイロスなどは、いわば「綺麗なエロティシズム」で、女性が見てもそれほど嫌悪感を持たれないだろう。

わたしの知る限り、相当「エロ・グロ」度が高いのは、ベルメールのドローイング、版画、ベルギーのフェリシアン・ロップス、以前ここにも書いたが、70代で自殺したピエール・モリニエ。モリニエはそれほどでもないが、ベルメール、ロップスは好きだ。
バイロスや、少しユーモラスなところもあるオーストラリアのノーマン・リンゼイなどに比べて、ロップスやモリニエには、露骨に顔をしかめる女性がほとんどだろう。

そういう部分がまだまだ出し切れていないもどかしさを感じる。「綺麗なもの」が嫌いなわけではないので、その点でもジレンマを感じている。
先日も書いたが、「性」(「エロス」ではなく「エロ」)と「死」、「醜」と「狂気」を孕んだ「美」・・・まだまだだ。こちらのブログに関しては未だ「上澄みだけ」という感じが否めない。



・・・なにもわざわざ人に嫌われたいのではない。ただ、わたしはわたしを知ってもらいたい。そして過去の経験から、深く知れば知るほど、人は離れて行く。

たとえば、駅へ向かう道を歩いているAさん、会社員の45歳のBさん。街中の任意の誰某・・・彼らが己のほんとうの内面をあからさまに表現したら、やはりわたしのように誰からも嫌われるのだろうか?
人は誰も「本当の自分」を隠すことによって、なんとか他者と、社会と繋がることができているのだろうか・・・

或いは多くの人は、わたしほど内面に変態性や狂気を孕んではいないから、手袋や靴下をくるりと裏返すように、内面がそっくり外面になっても、なにほども変わらないのだろうか?



・・・ここのところ腰が痛かったのだが、今日は動くことも困難だ。
「腰が痛い」といっても、実際には「腰」ではなく、内臓からくる痛みだ。

父は今月、5~6時間の大腸の手術をするが、わたしは、入院も手術も御免だ。
入院して手術しなきゃ確実に死ぬよと言われても嫌だ。仮にそれが「盲腸」であっても。
そもそもわたしは病院で正気でいられるとは思えない。
わたしは病院に入り病院で死ぬことが何よりも一番怖い。独りぼっちで誰にも気づかれずに死んで、腐乱臭が辺りに漂ってから、半ば腐った状態で発見される方が遥かに好ましい(望ましい)し、できるならわたしはそちらを選びたい。

死ぬことは怖くはない。(と思う・・・)死に至るまでが怖いのだ。
今目の前で、額に銃を突きつけられてもそれほど怖くはないだろう。一瞬のうちに頭が吹っ飛ぶだけなのだから。




0 件のコメント:

コメントを投稿