2019年4月29日

What is it ?


生きている意味がなければ、またそれがわからなければ、とても生きてゆくことはできない。シオランは、人は生きる意味、或いは「動機」がなければ生きられないと書き、自分はそれを持っていないといっている。「そしてわたしは生きている」と。

仮にわたしが「生きている」としたら、何のために生きているのだろう?

以前からどうしてもわからないことがあった。映画『男はつらいよ』の中で、寅さんの甥の満男が、時々「おじさん、にんげんて、なんで生きてるんだろう?」と尋ねる。
寅さんは苦笑いしながら「俺は学がないからそういう難しことはよくわかんねぇけど、ほら、たまにさ、何かの瞬間に、「ああ、生きててよかったな!」って思うことがあるじゃない。そのために生きてるんじゃないかな?」と答え、満男は感心して肯くのだが、わたしはそのような「ああ、生きててよかったな!」という実感を(自覚的には)持ったことがないので、そのように、誰もがそういう時を持っている、というような言い方に強い違和感を感じていた。


幸せは不幸ではないこと、生きるとは死んでいないことだとすれば、わたしは確かに幸せであり、生きているのだろう。

幸せが何であるかはわからないが、とにかくわたしは生きていて、楽しいと思うこと、うれしいこと、気持ちいいことというものが、これも自覚的にはまったくない。

わたしには、まるで自分がわからない・・・

「自分が何者か?」(Who am I?)
というよりも
「わたしとは何か?」(What is me?)という問いの方がよりしっくりする。

英語では、「わたしはか?」とはどう表現するのだろう?

少なくともWhoという言葉は「人間」に対して使われる言葉だ。
そしてわたしに対しては「あなたは誰?」「あなたは何者?」(Who?)ではなく「あんたいったい何?」(What?)という問いこそ相応しいと感じている。
(しかし「あんた」だろうが「お前」だろうが、そう問う相手が「人間」であることを前提としている。人間ではない「モノ」に、お前は何だ?と訊くときの主語は何だろう?)


「仲間」のいない存在とはどういうものだろうか?
この場合の仲間とは、「友達」「同士」というような意味ではなく、これは魚であるとか、鳥であるとか、爬虫類であるとかいうことだ。
「人」ではないわたしとは、ではいったい「何」だ?
わたしは何故ここに「在る」のか?








3 件のコメント:

  1. こんにちは, Takeo さん.

    アートを紹介する Takeo さんのもう一つのブログに載せられた絵は, 私の知らないものばかりですが日々楽しんでいます.
    私の狭い興味の世界が少しづつですが広がっていくようです.

    悪魔や邪悪なものを描いた作品や, 畸形や SM を感じさせる作品の数々は, 私の嗜好性と合っていて惹かれます.
    世界の隙き間と言うか異常さを垣間見せてくれる気がします.

    そういった作品に触れてそういった思いを抱くことで, 私は自らの心の在り場所を確かめることができているようです.
    日々の, 自分が居なくなってしまうのではないかという不安から解放されています. 怯えることが無くなります.

    私は, 自分や周囲のことが思惟や意識というものの無い, 見かけ上普通の形の空っぽの何物かが動いているように感じられて恐ろしいのです.

    ただ, こういった私の苦しみの大半は病から来るものであって, そこに存在への問いかけなどといった思想的な意味は無いでしょう.

    一方で Takeo さんの抱える苦痛はとても厳しいものに見えます.
    そしてその厳しい苦しみの中に, 強い否定と怒りを感じます.

    対象に寄り添ってよく知り理解した上で, 理由を問わずに "No" の一語で抹消してしまうようです.
    余計なものが削ぎ落とされて整った文章と相俟って, 苦悩と共に激しい意思の表出を見てしまいます.

    けれども, 私はその Takeo さんの強烈な否定の中から感じ取れる怒りに共感せざるを得ません.

    その背景には, 私自身が病のためではありますが, 怒りを含めた感情がほとんど持てないことがあります.

    本格的に鬱が酷くなってから長い間, 私は恐怖と不安以外で感情が揺らいだことがほぼありません.
    特に私は怒ることができません. 怒りを感じて当然・怒らなければいけないという局面を自分で判断できるのにも関わらず, です.

    そのために, 自分はいずれこんな風に感情が摩滅していって, 挙句に廃人になってしまうのではないかという恐怖から抜け出ることができないのです.

    私は怒りの感情が持ちたい.
    病によって引き起こされたのではない, しっかりとした怒りの感情を持つことで自分が居なくなる不安から逃れたいと思っているのです.

    Takeo さんの文章には, 近寄ることの危なさを感じさせることと並行して, 読むことの快楽を抱かせる魅力があると思います.

    読みにくい文章になっていたらごめんなさい. 私自身の体調のこともあり, 論理の連鎖をうまく把握できないのでご容赦ください.

    Takeo さんが, できれば穏やかで平和な心持ちで過ごせますよう.

    P.S., 二階堂奥歯さんの名前は, Takeo さんのブログに何度も表われますね. 書物に取り憑かれ, 言葉で世界を広げあるいは深めていく彼女の姿には, 畏怖を覚えると同時に憧憬の念も持っています.

    返信削除
    返信
    1. こんばんは、底彦さん。

      整った文章を書くことができないので、ざっくばらんな口調になるかもしれませんが、ご理解ください。

      嘗てわたしは「美はわたしの信仰である」と書きました。
      今の気持ちを言えば、「美は敵である」という気持ちを抱いているように感じます。
      「美」と「醜」「うつくしさ」と「みにくさ」というものが、極めて主観的なものであって、わたしは最近とみに、人が、醜い、醜悪と感じるものにこそ、崇高さと美を見ます。

      そのことは以前アイリッシュの写真家、ファーガス・バークの写真を紹介した時に話しましたね。単純に言えば、王侯貴族と乞食を比べた時に、わたしはより弱い者、より貧しい者、そして、より懸命に生きている者を美しいと感じるのです。

      底彦さんが、あのブログに載せているような、正に、異形の者たち、天上界よりも、地べたを這いずっているような存在、狂気、異常性・変態(苦笑)性に少しでも関心を持って下さっているということは、何よりもうれしいことです。

      実のところ、わたしは底彦さんが、最近のわたしの文章、そしてなによりも、あれらの絵を見て、わたしをすっかり見限ったと思っていました。

      わたしがこんなヘンタイだとは知らなかった、とね。



      書いているわたしには、「怒り」というものを感じながら書いているという感覚は無いのです。あるのは強いて言うなら、虚無感そして虚脱感でしょうか。それは表現を換えれば、この世界に、または自分というものの存在への「ノー・サンキュー」という気持ちであるのかもしれません。

      底彦さんは何故、「怒り」という感情の不在が自分の存在を不確かなものにしていると感じられるのでしょう。一般的には「怒り」や「憎しみ」という感情は「無い方がいい」とされているにもかかわらず。
      底彦さんにとって、「怒り」とはなんでしょう。
      いえ、無理に答える必要はないし、このような心の様子を明確に言葉にできるものでもないと思います。
      ただ、不安と恐怖という感情に、心をほぼ占領されている人が、持ちたい感情として、「怒り」という情動を選ぶというところに関心を持ちます。

      「怒り」それは底彦さんにとっては、「拒絶」に隣接した感情なのかもしれないと思いました。
      つまり、何か(それは自分の「外部」に限りません)にぶつけたい「NO!」が言えない自分への苛立ちが「怒り」への希求の源なのではないか、などと思うのです・・・

      二階堂の本も「近寄るのが危険な本」と言われています。ものにもよりますが、ある種の「毒」は人を魅了しますね。

      お気持ちを聞かせてくださり、ありがとうございました。いつでも気軽に書いてください。





      削除
  2. こんにちは, Takeo さん.

    多くの人にとっては醜い・醜悪と感じられるであろう表現も, ある一人にとってだけは大切で美しいと感じられるものがありますね.
    私はそのような表現を愛しています. 芸術表現を語る知識も能力もありませんが, そこにはもしかすると美の本質さえあるのではないかと思います.

    たとえば有名な絵だと思うのですがサルバドール・ダリの「内乱の予感」などは記憶に刻みこまれている私の一枚です.
    実物を観たことが一度だけあるのですが, 思っていたよりも仕上げが粗かったことでさらに惹き付けられたのを覚えています.

    また, 「ユマニテ」という映画を DVD を購入して何度も観ています.
    昔友人に誘われて映画館で観たのですが, 彼女は途中で劇場の外に出てしまいました. 「主人公が本当に気持ち悪い, 吐き気がする」と言っていました.
    けれども私にとっては大切な作品ですね. 心の病の映画ではないのに, 鬱病という病の (私の感じる) イメージを生々しく描いているように観てとれるのです. 確かに彼女は気持ち悪かったのでしょう.

    Takeo さんにも, きっとそのような作品があるのだと思っています.

    実際に, Takeo さんのもう一つのブログには, 中心に届くようなそういった絵がいくつも載せてあります.
    ほぼ全て私が作者を知らない絵ばかりですが, 画面をスクロールできずに見つめてしまいます.
    こんな邪悪で醜い作品が...
    絵というものの力は凄いものだと思ったりします.

    > 書いているわたしには、「怒り」というものを感じながら書いているという感覚は無いのです。あるのは強いて言うなら、虚無感そして虚脱感でしょうか。それは表現を換えれば、この世界に、または自分というものの存在への「ノー・サンキュー」という気持ちであるのかもしれません。

    Takeo さんの虚無感, 虚脱感というのはとても大きいのですね.

    虚脱感は読み取れませんでした. しかし, 世界への諦めのようなものが滲んでいるとは思います.

    ここで Takeo さんが抱いていると言う虚無感が多少恐ろしいです.
    その虚無は, Takeo さんを覆い尽くして飲みこんでしまいはしないでしょうか.

    何度か Takeo さんが「自己肯定感が低い」と書いている文章を読みました.
    そういった意識が底のほうにあるのかも知れませんが, Takeo さんの自分自身に対する否定が普通では無いような気がします.

    私も鬱が酷いときには自己否定の意識がとても強くなりますが, Takeo さんほど強烈に自分を否定することはできません.
    引き返さなければ, 逃げなければ, このまま否定の中に居たらその意識に殺されてしまう (文字通り希死念慮を呼び起こしてしまうという意味です).

    そういう恐ろしさがあります. 強過ぎるのです.

    > 底彦さんは何故、「怒り」という感情の不在が自分の存在を不確かなものにしていると感じられるのでしょう。一般的には「怒り」や「憎しみ」という感情は「無い方がいい」とされているにもかかわらず。
    > 底彦さんにとって、「怒り」とはなんでしょう。

    Takeo さんが書いているような, 拒絶に隣接した感情としての怒りへの希求はありました.
    私は「No」が言えません. 言いたいのですが駄目です.
    数年前に自分という人間にそれは無理だとわかりました.

    残念なことに, No を言うための力が私にはどうしてもありません.
    できることは No を言わなければならない状況に自分を置かないこと, 逃げることだけだと自身に言い聞かせています.
    そのように考えられるようになってから楽になりました.
    ただ, まともな社会生活は送れませんね.

    一方で, 私がまだ多少大丈夫だった時期に怒りが原動力になったことがあります.

    誰かを怒鳴ったり恫喝したりということでは全く無く (そのようなことは私にはできません), 身近な人びとやその向こうに透ける, 本来の意味での醜悪な意識や世界への怒りがあって, 私を生きさせる力を生み出してくれていたと思います.
    綺麗とは言えないような感情です.

    "quiet persistence" というのがその力の感じを表わしているかも知れません.
    適切な言い方ができませんが...

    そういう, 自分を生きさせる力の源となるような「怒り」を持ちたいのですが, 現在のところできていません.

    返信削除