2019年4月4日

無題


腰の痛みのため、かかりつけの内科を受診した。わたしの説明を聞くと、内臓に持病があることをよく知っていながら、検査をしてみようともせず、言下に、それは整形外科の領域だという。とりあえず、体を動かすことがないために血流が悪くなっていて、それが痛みの原因かもしれないので、血のめぐりをよくする薬を出しておく、これで治らなければ、整形外科に相談してください、と。

それにしても、たまには外に出る、電車に乗ってみるのもいいかもしれない。(内科は自転車で行くのだが)
外に出ると、ほんとうに心の底から寒々とした気持ちになる。当たり前のように平気で「散歩」や「ドライブ」などができる人は、いったいどういう人なのだろう?
外に出て、スマホバカや歩きたばこバカを目にすると、自然と「生への執着」が薄れてゆく。これは望ましいことだ。「絶望」・・・即ち「外界」にはなにもないという気分は、自死への恐怖を和らげてくれる。
死ぬのが怖くなったら、とりあえず外に出て、電車に乗ってみることだ。





明日父が入院する。
正直ホッとしている。心臓に疾患があるため、手術には危険が伴うという。
父が死んだら悲しいだろうか?正直見当がつかない。

親が入院して危険な手術をするのに、「ホッとしている自分」が別段嫌いではない。
そう思ってしまうのだから仕方がない。
わたしには働いて収入を得るという能力が無いので、そんなことはそもそも有り得ないのだが、仮にわたしが家庭を持つようなことがあれば、伴侶や子供から同じように思われるであろうことは火を見るよりも明らかだ。
つまり立場が入れ替わればまったく何も違わないということ・・・誰からも嫌われる者同士。お互いさまなのだ。

結局父も、母も、ある程度の年齢になったら結婚するもの、結婚したら子供を持つものという何やら馬鹿馬鹿しくも不合理な因習があった時代の犠牲者なのだろうと思う。
その結果こんな箸にも棒にもかからないような者が生まれてきたのだ。

・・・わたしには、当たり前に散歩ができる人の気持ちが分からないし、今の時代にこの国で、結婚したり子供を持とうという人の気持ちがまったく理解できない。

仮に両親がどんなに、どんなにその子を愛していて、命がけで愛していても、子供は社会に殺される。親は全身全霊を賭けても子供を守ることは極めて難しい。
社会に殺されることなく、今のこの国この時代を、そこそこうまく泳いでゆけるような子供を、わたしは愛することはできないだろう。そしてまた、生きることに悪戦し苦闘している子供であれば、わたしは「親になった罪」を生涯後悔するだろう。

わたしは両親を恨んではいない。両親もまた時代の犠牲者であるのだから。
そしてわたしは、まだ人間が人間らしく生きていた最後の最後の時代を見ることができたから。


ー追記ー

内科の待合室と薬局でテレビがかかっていた。画面の中で絵が動き、人の話し声がいやでも耳に入ってくるのでとても疲れる。
しかし上にも書いたが、最近は、「ああイヤダ」という場面に出くわすと、「しめしめ」という気持ちもまた、同時に生まれてくる。








4 件のコメント:

  1. Ciao takeoさん
    コメントはお久しぶりですが、いつもブログは拝見しています。

    > わたしには、当たり前に散歩ができる人の気持ちが分からないし、今の時代にこの国で、結婚したり子供を持とうという人の気持ちがまったく理解できない。
    同感です

    >仮に両親がどんなに、どんなにその子を愛していて、命がけで愛していても、子供は社会に殺される。親は全身全霊を賭けても子供を守ることは極めて難しい。
    同感です。

    >社会に殺されることなく、今のこの国この時代を、そこそこうまく泳いでゆけるような子供を、わたしは愛することはできないだろう。
    同感です

    > 結局父も、母も、ある程度の年齢になったら結婚するもの、結婚したら子供を持つものという何やら馬鹿馬鹿しくも不合理な因習があった時代の犠牲者なのだろうと思う。
    同感です

    >外に出て、スマホバカや歩きたばこバカを目にすると、自然と「生への執着」が薄れてゆく。
    共感です

    >即ち「外界」にはなにもないという気分
    何もないです、、、と言うか、あるんです まだ、辛うじて、、。
    でもそう言う大事なものをスマホバカや歩きタバコバカ達はことごとく破壊しています
    大地を全ておぞましいセメントで埋め尽くし、木を次から次へと伐採し、砂漠より酷いアスファルト地獄で窒息しすればいいと私は思います。
    このままで行ったら、遅かれ早かれそうなるのでしょうが。

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    1. こんばんは、Junkoさん。お久しぶりですね。
      今日は珍しく2月だったかに書いた「二枚の画」という記事に久しぶりのブログの友人からコメントを頂いたり、懐かしです。

      「二枚の画」のSさんへの返事にも書いたのですが、最近は人のブログを読むことがなくなってしまいました。単に「ブログ村」が「リニューアル」して使いづらくなったということだけが理由ではないでしょう。

      わたしは周期的に「言葉」から遠ざかりたくなります。厳密に言えば日本人の話す日本語から、でしょうか。それでも、ブログを書くことを完全にやめるつもりはありませんし、JunkoさんやSさん、そして、このブログの常連の3人からのコメントはうれしいものです。

      昨年の夏以降、Junkoさんや、その周辺の人たちのブログを読んでいませんが、Junkoさんは相変わらず、社会的な発言をされているのでしょうか。

      わたしはそう言う人たちとはスタンスが異なりますが、また彼ら、彼女らをせせら笑う気持ちもありません。

      このブログを読んでくれているのなら、わかるでしょうが、わたしは、負けを承知で闘っている人が好きです。「戦っている人」ではなく、「負けを承知で」というところが重要です。そして勝てる戦いしかしない人を嗤います。

      このブログは、閲覧者も、コメントをくれる人もわずかですが、みな真摯なコメントをくれる人たちです。Junkoさんも気が向いたら気軽にコメントしてください。

      ただわたしは明日日本が、世界が滅びても悲しくはありません。
      寧ろさっさと滅びればいいと思っています。

      そこがJunkoさんとの決定的な違いかもしれません。ただ、その点が違うからといって、門を閉ざすということはありません。

      コメントと、そしていつもこんな、夢も希望もないブログを読んでくださって、ありがとうございます。


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  2. Takeoさん
    私は去年の10月に我慢の限界が軽蔑に変わりつつある事に気付き、ブログを閉鎖しました。
    もう何も 語る言葉を持たないと感じたからです。
    Takeoさんの言葉を借りれば、彼らは安全でかつ勝利が約束されていない闘いでないと指一本動かしません
    お互いに相手の書いている事には一切反論せず、問題が起きない、相手に心象を害さないところで、歯の浮くような意味のない賛辞を交換し合ってる
    私が大嫌いな、ご近所同士 有閑マダムが自分の犬をちゃん付けし、互いに息子自慢ならぬ犬自慢をしている、そんなシーンと重なり、こりゃもうだめだとシャッター降ろし、踵を返しました。
    この人達と共有するものも共感するものも何もない、もしかして始めから何もなかったのではないかと気づいたら もう何も書きたくなくなりました。

    私は、姿形もそして思考や思いさえも醜い人間が嫌いです
    Takeoさんと同じく、世界が明日滅びても全く構いませんし、むしろ自業自得 さっさと滅びればいいと、思っています。もちろん私も含めです。
    その方が地球とそこに生きるほかの生き物のためになります。
    人間など、もはやゴキブリより遥かに害を振りまいている存在ですから。
    我が物顏に木を切り倒す人々、木の切株を見るたびに彼らも同じように足や腕を失えばいいと憎悪します。
    動物たちを彼らの住処から無理やり拉致し、動物園だの水族館だのに押し込めて悦に入ってる人々も大嫌いですし、それをいそいそ観に行く人々も軽蔑します。
    動物が見たければ、ビデオで充分ですし、そうじゃなかったら彼らの住環境を破壊しない程度にひっそりとこちらから赴けばよい、
    それが最低の礼儀でしょ。
    南極から連れて来られた、それも日本みたいな気候劣悪な場所に連れてこられた白熊もペンギンもかわいそうで、申し訳無くて涙が出ます。
    ああいう人々に北朝鮮拉致問題を批判する権利はないと思っています。

    正直言って私もこの世界に生きていることに飽き飽きしています。
    死ぬ気はないので、最後の1日まで丁寧に生き切るつもりでがおりますが、大半の人が少しでもこの世に長くいようとしがみついてるのとは、正反対で、私はいつその日が来るか、楽しみにしているくらいです。

    夢も希望も語っていないかもしれませんが、Takeoさんのブログには大半のブログには見られない、真実があります
    自然やそこに暮らす生き物達、木々、草花、虫、鳥、彼らが私に見せてくれるのも真実です。
    それをしない人間は嘘くさくて狡い、安っぽいくせに傲慢な生き物であり、だから必要以上に交わりたいという気持ちが湧きません。

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    1. こんばんは、Junkoさん。

      以下、感じたままを書きます。

      もともとJunkoさんのブログは、あまり日本人的ではなかった。「ブログ友達」という人の意見にも、正面から「私はそう思わない」「私はこう思う」と言っていた。

      わたしはいつも不思議に思っていました。なぜこのブログに、こんなに「ブログ友達」とやらが、ズラリと並んでいるんだろう、と。なぜこんなに読者=支持者(?)が多いのだろう?

      わたしがJunkoさんのブログを読んでいた当時に感じていた、読者と書き手との微妙な「ズレ」
      しかしわたしの目には、ともかくもJunkoさんのブログは「人気のあるブログ」と映っていました。基本的に同調・共感する部分が多いものの、ブログの「在り方」としては、わたしとは全くと言っていいほど違うと思っていました。どちらがいい悪い、どうあるべき、という話ではありません。

      何か具体的な契機があったのでしょうか?
      だって、意見の相違は最初からずっとあったことでしょう?

      わたしもブログを途中でやめた人を何人か見てきました。
      その理由としては、「書くことがない」「誰も読んでくれてない」
      しかしJunkoさんのブログはそのどちらにも当てはまりませんね。

      わたし個人の話をすれば、似たようなことばかり書いていますが、引きこもりであっても、生きている以上、書くことがなくなるということはないと思っています。
      そしてこれは、あくまでも第一義的に、自分の「内面の記録」なので、読者の多寡は問題ではないのです。寧ろ、「人気のブログ」というものにはどうも近寄りがたさを感じます。
      そもそも「人気」というものの底の浅さをいつも思っているので。
      「なぜこんな内容のブログがこんなに人気があるのか?」とは思わず、「この程度の内容だからこそ、みなが寄ってくる」のだと思っています(苦笑)



      >私は、姿形もそして思考や思いさえも醜い人間が嫌いです

      わたしは自分自身が、外見・内面共に醜いと思っていますので、醜い人には共感を覚えます。醜い・・・つまり「異形の者たち」です。そして美しいものの嘘くささを厭います。
      一言でいえば、わたしは多くの「普通の」人たちが目をそらすようなものにこそ関心が向きます。

      その「普通」のスタンダードが、日本と、他のアジアも含めた日本以外の文化圏とでは、かなり隔たりがあるのですが。

      わたしがブログをやめたと言っても誰も驚かないでしょう。またやめるつもりも更々ありませんが、少なくとも、昨年夏以降の動向を知らず、これまでのJunkoさんのブログを知っている者は、ブログの閉鎖と聞けば驚くでしょう。

      いずれにしてもそれはJunkoさんの決めたことです。わたしが感じ続けていた、書かれている内容、書き手の性格と、それに比しての人気の高さという「不調和」が飽和点に達したのか・・・などと考えます。

      その他、このコメントに書かれていることは、今更言うまでもなく、昔からのJunkoさんのポリシーとして承知していますし、またわたしと同じであるということで、敢えて付け加えることはありません。

      今回、ブログの閉鎖と聞いて、何があったのか?という下世話な好奇心はあるものの、もったいないとか、なんで?とは思いません。

      何度も繰り返しますが、あの内容、この書き手の性質で、あの人気という状況に違和感を感じ続けてきた者として自然な成り行きとさえ思います。





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