2019年4月18日

不便になる一方の世の中


● 先日、新聞の日曜版の特集で、これから普及するであろう「電子教科書」についての特集があった。それをみていやな気分になったが、同時に、わたしはほんとうに、つくづく、子供というものを持たなくてよかったと思った。
わたしは学校で、タブレットだかipadだかのような(そもそもこの両者の違いを知らない)教科書を使い、今こんなことを習っていると、それをわたしに見せる子供を嫌悪さえするだろう。無論それは子供のせいではないのだが・・・


● 最近は、インターネット上で、たとえばSNSのようなサイトに参加登録する際に、「携帯電話番号」を記入することを求めるサイトが増えている気がする。
そういうのが増えてくれば当然利用できないサイトも増えてくる。

数年前、母が緊急入院した折、入院の手続きの書類を書いているときに、自宅の電話番号のほかに「携帯電話番号」を記入する欄があった。わたしはここは書けないと困っていると、受付の人も困っている様子だった。携帯電話を持っていない人は入院すらできない時代なのかと思った。幸い(?)傍に弟がいて、家族の中で唯一弟が携帯(スマホ)を持っているので、その番号を書いたが、あの時、弟がいなければどうなっていたのだろう。

今回も父の入院の際に、自宅の電話と携帯電話の番号の記入を求められたが、母は、そこは書きませんと拒否したらしい。自分も父も携帯電話を持っていないという理由だけではなく、連絡先は自宅の電話だけで充分であるとの判断からだ。
弟に番号を訊くこともなかった。「緊急の時に・・・」というのが病院側の言い分のようだが、母は、携帯電話を持っていなくて、緊急の連絡が間に合わないのならそれはそれで運命ですから、と言いたかったようだ。昔から、少なからぬ人が、何故か「死に目に会う」「会えなかった」ということに拘るのか理解できなかった。わたしは「携帯電話を持っていなかったばかりに」母の死に目に会えなくても仕方がないと思っているし、母も同じ考えだ。

携帯電話であれスマホであれ、ただではない。しかし仮に携帯電話所持にびた一文かからなくともわたしはお断りだ。タダだろうが嫌いなものが好きになるわけでも、「持ってもいい」という気持ちになるわけでもない。


● わたしがインターネットを始めた当初から使っているヤフーから電話があり、わたしは今人と話す気分じゃないし、まして馬鹿な携帯会社の馬鹿な若者と話などしたくないので、母に代わって聞いてもらったが、なんでも今後数年でわたしが今使っているADSLが使えなくなるとか、モデムの交換とか、そんなことらしい。

このままADSLを使い続けられるのなら、今より多少使用料金を上乗せしてもいいが、
インターネットの利用方法自体が大幅に変わるのなら、もうインターネットもしなくなるかもしれない。困るといえば困るが、それは自業自得というものだ。

繰り返しになるが、携帯電話がなければ利用できないものはしなければいい。そもそもそれがないと日常の生活に支障があるというのなら、わたしは携帯電話を持つことよりも、生活=生を放棄する方を選ぶ。






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