2019年4月28日

淋しさの底ぬけている(極私的ノート)


二階堂奥歯の言葉を借りれば、最近(?)は「社会への違和感」ではなく、そもそも自分というものがこの世界に存在していることがひどく不思議で、またとても不自然なことのように思われてならない。

「わたしはなんのために生きているのか?」と問う以前に、そもそも「わたしは生きているのか?」という疑念の方が大きい。
「生きている」「生きていない」という判断はどのようにして下すのか、またその基準はどういうものであるのかはわからない。しかし少なくとも、わたしには自分が「生きている」という「実感」がない。

わたしはなぜ今ここにいるのか?それについての眼差しを捨象して、とりあえず、今自分はここにいる、私はこうして生きているということを疑う余地のない当然の前提として、さてでは「今たしかに生きているわたし」は、いかにして幸福になるか、幸福とは何か?という議論は、わたしの理解を遥かに超えている。

自分が存在していること、自分が生きていることが「自明のこと」ではない限り、わたしにとって幸福についての話は所詮机上の空論に過ぎない。

わたしが知りたいのは、いかにして幸福になるか、幸福とは何かということ以前に、「わたし」とは「なにもの」か?即ち「これはなにか?」わたし=(これ)は、何故いまここに「在る」のかということ以外にはない。「これ」がなんだかわからないのに、何故「これ」の「幸福」について語れるだろう・・・





世界に存在している(らしい)ことに、強い違和感を感じながら、その世界から二階堂や西部邁のように、さっさと出て行くことができないでまごまごしているわたしは、自分がなんとか息をつける場所を探す必要があるように思える。

わたしが最近関心を持っているのは、これは、二階堂、ドロローサ、種村季弘などの影響もあるだろうが、「悪魔主義」のようなものだ。

しかし、さて「悪魔」といって、それについて全く何の知識もないことに改めて驚いている。
何たる無智であろうか。

「悪魔と聞いて真っ先に何をイメージしますか?」と訊かれても、まるで思いつかない。
これは「神」についても同じことだが、宗教について全く考えたことがない。

たとえば、一方にボードレールとオスカー・ワイルド、もう一方に、首相Aと副首相のガラの悪いサルを置いて、どちらが悪魔的か、どちらが「悪魔」のイメージに近いか?と訊かれれば、迷うことなく、ワイルド、ボードレールを選ぶだろう。ではそれは何故だろう?


悪魔イコール悪なのだろうか?
では「悪」とはなにか?
「悪」イコール「犯罪(とされている行為)」なのだろうか?

加藤智弘や植松聖は「悪魔」か?否!そもそもこの二人を同列に扱うことはできないが、大量殺人は、悪魔ではなく、それこそまさしく「人のなせる業(わざ)」なのだと思う。
「ヒト」とはおそらく「悪魔」と呼ばれる存在以上に「邪悪」なものなのだろう。





「人生」はよく「旅」に譬えられる。
これもわたしにはよくわからない。

「人生は旅」とは、わたしにとっては、例えばこんなことだ。



Le Voyageur immobile (The Motionless Traveller) 1968, Roland Topor. French (1938 - 1997) - Lithograph -

「静止した旅人」ローランド・トポール(1968年) 

世界はわたしとまったく無関係に存在し、動いている。

わたしは世界を見せられている・・・






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