図書館から借りてきてもらった澁澤龍彦の本をめくっていて、なんだか「いやな気分」になってきた。アート、特に異色の美術を好む者が、澁澤や種村季弘の本を読むなんて、まったくもって「型通り」じゃないか。
澁澤龍彦はカリスマであり、その道の「権威」である。何故わたしがそんな人の本を読まなければならないのか。
存在論として、わたしは才能のある者、多くの人に認められ、愛される者を厭う。
澁澤龍彦を読むくらいなら、寧ろ、心を病んだ人、引きこもりの人たちの、誰からも一顧だにされないようなブログを読みたい。実際読む読まないはともかく、わたしにとってそれらは、澁澤龍彦や種村季弘の著作よりも、存在論的に意味があるのだ。程度の差はあれ、それは辺見庸だろうが、西部邁だろうが同じことだ。人に(その名を)知られているということ、それが反権力・反体制の人であろうと、支持者が多いということは胡散臭いことであり、見た目に見苦しいことだ。(「狷介孤高の人」という称賛も同断)
死んで多くの人に悲しまれ、惜しまれる存在よりも、その人が死んでも誰も困らないし、なんの支障もない、死んだ翌日には忘れられている、というような人こそ、尊い存在であると思う。
文学であろうと、アートであろうと、音楽、映画、すべて、わたしの嫌う「才能のある人」「皆に愛されるひと」の手によって作られたという、このどうしようもない不条理。ジレンマ。彼/彼女を愛する人の多寡が問題なのではない。知る人ぞ知る・・・所謂「通好み」「玄人筋に愛されている」などというのにも辟易する。寧ろこういう形の方がより嫌いかもしれない。
文明は醜悪であり、文化は鼻持ちならない。「文化・文明」の産物と無縁に生きられたら、それが理想なのだが・・・
こんばんは。
返信削除有名無名ということについては、ぼくもよく考えます。
前に、ここでTakeoさんと話したことで、「勲章」を受け取るか否か、ということにも共通して言えることだと思いますが、要するに「権威」を与えられた者と、与えられない者ということなんだと思います。
でも、あの時に書けなかったことで、実を言うと、「勲章」を拒否した人には「勲章を拒否した者」と言う「称号」が与えられてしまうということもあります。
自ら「権威」を求めて、堕落する人は多いでしょうが、「権威」は望まない人に一方的に与えられてしまう場合もありますよね。
そういうことを考えていくと、ぼくの場合は、「権威を受けた」ということ以上に、その「権威の上にデンと居座ってしまった」ということの方が大きく感じられることが多いですね。
もちろん、「勲章」のような国家的な権威を拒絶した人は、無条件で称賛しますが、それでも、やはり、そういう地位にデンと居座ってしまう人が出てきます。
そんな時は、せっかく送らせていただいた称賛を、半分くらいは返していただきたいなと思ってしまうわけですね。
だから、ぼくの場合は、「有名・無名」・「権威・反権威」ということ自体よりも、そういうことが、まったく眼中にないような、自分がどのような権威を与えられようが、有名になろうが、乞食だろうが、まったく頓着しないでいられる人がいれば、そういう人を最も評価するでしょうね。
まぁ、はっきり言えば、そんな人いませんけどね。
でも、そういう方向を向いている人は居るような気がします。
この記事を読んで、そんなことを思いましたよ。
それでは、また。
追伸
返信削除書き忘れましたが、「権威」は、使い方によっても意味が違ってくると思います。
「権威」を「権力」や「暴力」と同じように使うこともできますし、「やさしさ」や「いたわり」として使うこともできると思います。
ただ、一般的に言って、それを「やさしさ」や「いたわり」として使うような人の所には、「権威」が回っていかないようになっているということなんですね。
では、また。