ひょっとして、このブログを継続的なり、不定期なりで読んでいる人が、わたしのもうひとつのブログ「わが孤独・・・」のエロ・グロポストを見てどう思うだろう?
「なんだかすっかり変っちゃったな」と感じるだろうか?
しかしわたしはちっとも変ってはいない。
早稲田の哲学科を卒業し、国書刊行会に編集者として働いていて、2003年、25歳で投身自殺した二階堂奥歯の残したブログ(ウェブ日記)が書籍化されているのを、2年前に新聞で遅蒔きながら知り、以降愛読書になっていることはここで何度も触れた。
彼女の本『八本脚の蝶』は、もともとがブログなので、その当時、彼女が使っていた「ニフティー」というプロバイダーが、ブログサービスを止めたので、彼女が書いていた当時のまま残っているわけではないが、全く同じ内容で、今でもウェブ上で読むことができる。
わたしは図書館で本を借りて読んだが、専らネット上のものを読んでいる。
図書館の本では線を引いたり書き込みをすることができないから。
その『八本脚の蝶』の2001年10月の記事を引用する
◇
「会社の先輩が貸してくれた北村薫『夜の蝉』(東京創元社)を読んでいて、ある部分でぐっと詰まった。
主人公の本好きな大学生(日文)の女の子は、短編を読んで魅かれていたソログープの長編『小悪魔』を、友達の先輩(面識はそれまでない)に借りる。読んでいて何の気なしにカバーをはずしたら表紙には!
<<無気力と憂鬱、グロテスクとエロチシズム>>と書いてあった。
私は瞬間、かっと全身が燃え、続いて血の気が引いた。
信じられない罠に落ちた女狐になったような気がした。
麗々しくそう謳ってある本を、男の人に声までかけて何がなんでも借りたことを、その瞬間私はたまらなく羞ずかしく感じたのだ。
ガーン!
いつも(?)そういう本ばかり読んでいる、むしろそういう本を友達に(本友達は男性ばかりだ)貸している、むしろそういう本の作り手でありたい、私の立場は!?
この主人公は国書の本読まないのね。きっと。読んでも叢書江戸文庫くらいだ。決してフランス世紀末叢書なんか読まないに違いない。
でもねでもね、身持ちの堅くてしっかりした真面目なお嬢さんとして近所に通ってそうな、小市民的な道徳と幸せを決して疑おうとしないこの主人公のかたくなさでは、物語のおもしろさを理解できないことも多いのではなかろうか。
グロテスクとエロチシズム取ったら私なんてさ……。
(やさぐれ気味)。
勿論私もとても真面目なのだけど、彼女の真面目さとは違う真面目さなのだった。」
◇
一般には「エロ・グロ」、そして「ナンセンス」などを好む者は、浮薄な変態だと思われているのだろう。
どう思われても構わないし、わたしの苦痛をここでアリバイ作りのように訴えても仕方がない。
木村敏と有島武郎の本は、借りたまままったく手付かずだが、今日また、澁澤と種村の本をリクエストした。荒俣宏の『悪趣味の復権のために バッドテイスト』は、パラパラと読んでいる。「澁澤と種村」と聞けば当然それらの本が、「エロティシズム」「グロテスク」「デカダンス」というキーワードで通底していることは明らかだ。
尚、本日「あちら」のブログに投稿したMilo Manaraというイタリアのイラストレーターは、二階堂の本で知った。
多分わたしは、エロスとグロテスクというものを使って遠くへ行きたいのだと思う。
つまり、非、或いは反・常識、反・社会的なものへの傾斜が、わたしを、「褻」ではない、「エロ・グロ」という「ハレ」=非(反)・日常へと向かわせるのだろう。
ついでにアマゾンに書いた、この本のレビューも引用しておく。
彼女が亡くなって16年が過ぎた。生きていれば40代なのだ。
こんな彼女は、今のこの時代をどのように生きただろう・・・と思うよりも、わたしには彼女には、蝉や蜻蛉のように、最初から定められた命の短さというものがあったような気がするのだ。
◇
「死ぬことを持薬を飲むがごとくにも われは思えりこころ傷めば」(啄木)
2017年4月22日
遅蒔きながら彼女のことは2017年3月に新聞のコラムで紹介されていたことをきっかけに知った。
50代の中年男性にとって、25歳で死を選ばざるを得なかった彼女の遺した言葉について語ることは、いささか大きすぎ、重すぎるのかもしれない。
正直に言うと、わたしにとって二階堂奥歯とは、若くして自死した人、という定義が第一番に挙げられる。
言い換えれば、彼女がまだ生きながらえていたとしたら、わたしはこの本を手に取ることはなかっただろう。
「一般に長生きの芸術家や革命家ほど我々を痛く失望させるものはない」という辺見庸の言葉に共感する。そして彼は続けて言う
「とはいえ、エミール・シオランの言うように、『誰もが夭折の幸運に恵まれているわけではない』のだ・・・」
若き日「犬猫も鳥も樹も好き 人間はうかと好きとは言えず過ぎきて」と書き、
後に勲章を二つも受勲した女流歌人がいる。(注・歌人齋藤史)
「生きたもの勝ち」なのか「死んだもの勝ち」なのか?それを言い切ることは難しいが、
少なくとも生きて「立派」になることは、その若き日の言葉を知る者としては苦々しく鼻白む思いだろう。
『八本脚の蝶』の中に次のような記述がある。
「…私が黒百合姉妹を知ったのは16歳の頃だ。
その頃私は生きているのがおそろしかった。
そして決心した。私は決して子供を産まない。
私が耐えかねている「生」を他の誰かに与えることなど決してしない。
私は高校生で未成年で被保護者だから今はしないけれど、大人になって自分で生計を立てるようになったら、卵管圧挫結紮手術を受けよう。
避妊だとか、ましてや掻爬といった場当たり的な手段では足りない。私が生を与える可能性を完全に消し去ろう。
私は、産む機能を持たない身体を得ようと思った。
このおそろしさは、私で終わりにする。
卵管圧挫結紮手術を受け、妊娠が不可能な身体になった後、私が考えを変えて子供をほしがることがあるかもしれない。今の気持ちは変わらないなどと思い上がりはしない。私は自分がどれほど変わりやすく、忘れやすい人間かを知っている。
だからこそだ。私は取り返しのつかない改変を自分の身体に加えようと思った。子供をほしがる未来の私を私は決して許さない。未来の私が今の私を裏切ろうとするのならば、思い知るがいい、私は決してあなたを許さない。
子供をほしがる未来の私よ、あなたは忘れたのか。
この世界がどれほどおそろしかったのかを忘れたのか。
このおそろしさをあなたの子に味わせようというのか。
あなたは悔やむだろう。今の私を恨むだろう。これほど大きな不可逆的な決定が既に下されていることに苦しむだろう。
苦しめばいい。この恐怖を味わう可能性を産み出そうとする私など苦しみ嘆けばいい。
子供を産もうとする私よ、あなたはあらかじめ罰されている。」2002年11月2日(土)
わたしはこの発言に100%共感する。
けれどもわたしは彼女に根強い希死念慮があったとも、もともと彼女の心が病んでいたとも思わない。(無論自殺間際の時期に関しては別だが)
読書量に関して驚く声が多いようだが、チャールズ・ブコウスキーの言葉だったか「本がなければこの世界は地獄だ」と、思う人間も存在している。
逆にいえば「本があるから生きてゆくことができる」のだ。
◇
この本に触れて一番衝撃的だったのは彼女の創造力の豊かさだ。彼女の描いた「短篇」(ショートストーリー)に強く惹かれる。
では早世は惜しいではないか、と言われるかもしれないがそうは思わない。
高野悦子や芥川、太宰、ゴッホなどをその「自死」と切り離して語ることが不可能なように二階堂奥歯もそのような存在のひとりなのだろう。
また彼女の世界認識の仕方は非常に興味深く、世界は眼差されることによって、「注視」されることによってはじめて存在すると考えているように見受けられる。
日記部分と、遺品の写真だけであるなら満点だが、周囲の人の言葉はわたしには不要であったので、実質的に星は4ッ半。
このように故人の言葉を「★」で評価するなどということがひどい冒涜であることを認めます。申し訳ありません。
素敵な本を残してくれてありがとう。二階堂さん。
◇
わたしの罪、それはとりもなおさず、「生まれてきたこと」に他ならない・・・
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