2020年10月23日

断想

 
川畑さんとの対話の中で、「痴呆老人」や「重度の知的・精神障害などを持った人たち」のいのちの尊厳とは、という話が出た。

パスカルは人間の尊厳は「考えること」にあると断言した。しかしわたしはそうは思わない。

最早パスカルのいう「人間の尊厳」すら喪っている痴呆老人にも、いのちの尊厳はある。

その根拠となるのは、他ならぬ、わたしたちが、感情移入できるか?ということ。
誰かがその人間に対し感情移入することによって、命の尊厳は保たれるのだと思う。

この考えは以前からわたしには親しく、例えば二階堂奥歯の「ピエロちゃん」の話、
そして、マルセル・デュシャンのいう「アートというものは予めあるものではなく、私の眼差しが創り出すものだ」という考え方はとても親しみやすい。
眼差しが、「眼差す者」と「眼差される者」との関係性が、対象を「生成」すると考えるのだ。

このことについて川畑さんの言われたことが印象に残っている。

以前、教えてくれた言葉、
「不幸な人にしてあげられるただ一つのことは、彼(ら)に関心を向けることだ」(シモーヌ・ヴェイユ)は心に残っています。
ただ、「関心を向けること」は、「してあげること」ではなく、他者性とむき合うときの倫理(姿勢)のような気もします。
内側から湧いてくるものでなくては、嘘くさく(「福祉的に」「傲慢に」?)なってしまう気がします。
「嘘くさく」「傲慢に」という表現と「福祉的に」という形容句が同一線上に並んでいることに川畑さんの姿勢を垣間見た気がした。

同時代に生きたカミュや神谷美恵子が指摘したように、シモーヌ・ヴェイユの弱者への共感は一種常軌を逸していた。=「狂気を帯びていた」
川畑さんの言葉を借りるならば、シモーヌ・ヴェイユの虐げられし者達への姿勢は、「してあげる」とは対極ともいえる。彼女は常に、(存在の在り方として)「共にあろうとしてきた」それは単に「寄り添う」ということではなく、現実に「共に飢える」ことであった。ここにもひとつの、「狂的な」「魂」があった。

昨夜のメールの結びに「わたしは根っからの勉強嫌いですが、こういう対話そして議論は人一倍好きです。」

と書いたことに対して、川畑さんは再びヴィトゲンシュタインの言葉で応えてくれた。

「新しい言葉は、新鮮な種子に似ている。それは、議論という土地にまかれる。」




 


 


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