このところ文章を書くことが難しい。言葉を紡いでゆくことが出来なくなっている。
わたしにとっての「ブログ」というものは、「その時々に感じたこと、考えていること等を記してゆく」ものであった。プロフィールにも書いてあるように、「内面の記録」であった。
けれども、その時々に何を感じ、何を考えているのかが見えにくくなった。ときどきの「気分」はあるが、言葉にできるようなまとまった「気持ち」というものが見当たらない。
それは或いは、意識的・無意識的に「見ないように」しているのかもしれない。
ここ数日、或る人とメールのやり取りをしている。その人の本職は様々だが、ベテランのPSW(精神保健福祉士)でもある。あるきっかけから今は「他者性」と「狂気」について話している。長いやり取りではないが、対話を通じて考えさせられるところが大きい。
以前も書いたと思う。(主に海外のアート・ブログについてだが)「とても敵わないなあ」と感じさせられるブログに出逢えた幸運、と。メールのやり取りをしている人はブログを書いているわけではないが、学ぶところ多いという点で、出逢えてよかったと思わせる人であった。
ポール・ヴァレリーが、「友だち(他人)がわたしから引き出してくれるものが無かったら、我々は何と貧しいことだろう」と書いている。
このブログも一時、秀抜なコメントが多く寄せられていた時期があったが、今はもう見る影もない。そしてわたしは自分の中に何があるのかを自分で見つけることができない。
ふと、「その人」とのやり取りをこのブログに転載してみてはどうだろうかという考えが浮かんだ、そのことを先方に伝え、まだお返事は頂いていないが、その間にも「月にむら雲 花に風」の如く、コロコロと気持ちが変化する。
わたしにとって・・・現在のわたしにとって、ブログとはなにか?
「わたし」という特異な個人の考えをわざわざ公にする意味とは?
読者の多寡の意味するものは?SNSで多くの「いいね」や「スキ」をつけてもらうこと、少なからぬリツィートがあるということと、「わたし=書き手」との間にどのような関係があるのか?
「わたし」と、実際に会ったことはないが、声も顔も知っている人との個人的なやり取り、それが如何にわたしにとって実り多いものであったとしても、それが、このブログの読者にとってどのような意味を持つのだろう?
またその人とのやり取りに限らず、「わたしの内面」を「見知らぬ人たち」(Totally Strangers) に対して公にする意味が、わからなくなっている・・・
仮にその方の許可が得られて、ここに二人のやり取りを転載したとして、その他にわたしが個人的に書くことがあるのだろうか?
個人的な生活ではわたしの日々は風雲急を告げている、しかし、それと、「他者」である読者との間に何のかかわりがあるのだろう?
わたしに必要なのは「対話」であって、ここでの孤独なモノローグではないような気がしている。
ー追記ー
半年以上の猶予の後ではあるが、9月から「ブロガー」全利用者のダッシュボードの完全なリニューアルが終了した。そのことにより、ひょっとして頂いたコメントが表示されないどころか、コメントがあったことさえこちらには分からない場合もあると思います。
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