2020年10月4日

ふたつさんの作品

 
数日前、過去に投稿した種村季弘氏に関する記事と、「生体の悲鳴が聞こえるか」という文章を読んで、いまさらながら、いったいわたしは誰を相手に話をしているんだと、つくづく嫌気が差し、先日の記事を削除しました。久しぶりにふたつさんがコメントを寄せてくれた投稿でした。



ほんとうの おくりもの

いま きみに おくりものを おくろう
そう きみに ほんとうの おくりものを おくろう


あまっている ものを あげて 
それを おくりものと いえるのか

ぼくは それを おくりものとは よばない

いらない ものを わたして 
それを おくりものと いえるのか

ぼくは それを おくりものとは よばない

それならば
ひとが よろこぶ ものを おくれば
それを おくりものと いえるのか

いや それでも ぼくは それを おくりものとは よばない


たしかに よのなかは うまくいく
いらない ものを あげて
もらった ひとは よろこぶ
すべて まるく おさまるに ちがいない

でも それは ほんとうの おくりものでは ない

なぜなら 
よろこびだけが おくられて
かなしみが おくられて いないから

だから その おくりものが ひとの こころを うごかすことは ない
だから それは ほんとうの おくりものでは ない


いま きみに
ほんとうの おくりものを おくろう

いま きみに

それを うしなえば ぼくが いきて いかれなく なるような 
そういうものを いま きみに あげよう

いま きみに

それを おくれば ぼくが きみに きらわれ ときには にくまれて しまうような
そういうものを いま きみに おくろう


そう きみに 

ぼくの なかみを そっくり きみに てわたそう



おそらく きみを よろこばせることの ない
この 『かなしみの ギフト』を

はたして きみは うけとって くれるだろうか














1 件のコメント:

  1. Takeoさん、こんばんは。

    どうも、最近、ぼくのコメントはかなりの率で削除されてしまいますね。
    いや、それをどうこう言うつもりはありませんが、どうやら、ぼくのいう言葉や作品がTakeoさんをイライラさせるようです。
    だから、これに対する返信は少し良く考えてからにしたいと思います。

    ここで、一つだけ言っておくと、ぼくは、インターネット上の言葉はすべて「嘘」だと思っています。
    だから、信用はしません。

    これは、その人を信用しないということではありません。
    その人の言葉がすべて事実であっても、ネット上では、それが「嘘」に成るということです。

    ただ、それを絶望的には考えていません。
    なぜならば、もともと現実の世の中や人間の中にも「本当」と言えるほどのモノは、ほとんど無いからです。

    そんな中で、実は、インターネットの中に唯一「真実性」を生み出すことが出来る条件があります。

    それは、ありとあらゆることに対して、自分にとっての「不利益」を選択することです。

    事実であっても、「利益的なこと」は言いません。
    「不利益的なこと」であれば、言います。
    逆に、時には、不利益的な場合に限って「嘘」も言います。
    「嘘」をついても、出来るだけ自分の利益を排除します。

    もちろん、こんなことは、そう簡単には出来ませんし、何が利益的で何が不利益的であるかの判断は、その都度その状況で変わりますし、ここでの不利益が別の場所(例えば自己のブログにおいては)利益に成るかもしれません。
    それらを、すべて判断することなど到底できないことですが、それをやろうとすることだけが、ネット上の真実を創り出す可能性を持っていると思っています。
    これは、現実の世界では不可能かもしれません。
    (「嘘」も「本当」もバレやすいので)

    そのことと、『かなしみの ギフト』・『この なみはずれて とくべつな いきもの』という二つの「詩のような題」との関連は説明が長く成りそうなので、また、次の機会にしますが、ここで、言っておきたいのは、ぼくの絵の「詩のような題」は、独立した詩ではなくタイトルに過ぎないということです。

    タンブラーでも、「長い題」を嫌う人も居たようです。
    「don't say it.don't say it.don't say it.don't say it.don't say it.don't say it.」
    と書かれたこともありましたし、「黙って絵だけ見せて貰えないか?」というような意味のことを英語で言われたこともあります。
    要するに、変わったことをやると批判されるということですね。
    逆に、褒めてくれた人も同じくらい居ました。

    ただ、これは「タイトル」だということです。
    つまり、重要ではありません。
    絵を「タイトル」によって好きになったり嫌いになったりする人は少ないと思います。
    長いので、どうしても「好き・嫌い」が分かれますが、基本的には「タイトル」に過ぎませんん。


    それから、この絵の中のキャラクターに「強さ」を感じますか?

    ぼくは、この絵に「強さ」を描いたつもりはありません。
    「詩のような題」も同じです。

    ぼくは、「つよく なれ」とも「つよく あれ」とも「きみは つよい」とも言っていません。

    ぼくが言ったのは、

    「きみは ゆいいつむにの きみで あり それを はじることは ない」
    「きみの きぜんとした たちすがたは こんなに うつくしい」
    「きみは いじめや さべつに くっする ひつようなど ない」
    「その たたかいの ために ひつような よろいと はがねの あしを わたしに おくらせて くれませんか」

    まさに、ぼくが描いたのは、「足を失った人」だと言ってもいいでしょう。


    これについては、また機会があれば、書こうとおもいますよ。
    それから、「差別」についても、長く成ってしまいそうなので、またの機会にしときます。
    でも、たぶんTakeoさんが言わんとするところと、ぼくが言わんとするところは、ほとんど同じだと思いますね。


    最後に一つ言わせていただけるならば、この絵は、ぼくの絵の中では今のところ群を抜いています。
    たぶん、だからこそ、見た人に違和感を与えるのだと思います。
    タンブラーでもリアクションが少なかった絵の一つでした。
    これは、自画自賛などではありませんが、作者として言っておきたいことなので。
    それじゃないと、見た人や、タンブラーでこんな絵にリアクションをつけてくれた数少ない人たちに失礼なので。

    ハッキリ言えば、ぼく自身も、この絵に強い違和感を持っているんですが、それこそが「芸術作品の存在する意味」でもあるので。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    最後に、Takeoさんの文章には、きっと何かの反応が返ってくるに違いないと思っています。
    Takeoさんが、「治りたくない」という気持ちを表現することで、読んだ人の中に「治る人」が居てもいいと思いますが、どうでしょうか?

    現に、底彦さんの中には、そういう心情があるような気がしますが、どうでしょうか? 
    それを、悪いことだという理由は無いと思いますよ。


    けっきょく、長く成ってしまいましたね。
    それでは。

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