2020年9月29日

無題

 
グループ・ホームへ入るという道が閉ざされた。もとよりグループ・ホームで安住できるとは思ってはいない。わたしにとってそこは、結局自分にはどこにも安息の地はないのだということを再確認するための、いわば助走のための場になるはずであった。

どのような生き方も考えることができない。例えば今わたしが60歳で、安くて質のいいケアハウス=老人ホームに入り、それこそ上げ膳据え膳の生活ができたとしても、それのなにが楽しいのだろう。わたしは外に出られない。何の楽しみもない。母の負担がひとり分減ったとはいえ、わたしの生が依然として苦痛であることに変わりはない。たとえ門が大きく開かれていて、外出・外泊自由自在、門限もナシだとしても、わたしにはどこにも行くところがない。行きたいところがない。

今、わたしの立っている地平は水平ではない。明らかに死の方へ傾斜している。
その勾配は次第に垂直に近づいてゆくだろう。9時から10時ー11時そしてDecemberへと・・・

グループ・ホームに入れないといっても、ここで来年の夏まで母と暮らすことができないという現実は、いささかも変わらない。

少しづつ身辺整理を始めようと思う。これまでは「そのうちまた使うかも」と思っていたモノも、「そのうち」が無くなれば始末するしかない。
カーペットは掃除ができないので処分する。問題は画集類と、レコード、ビデオ、そしてレコード・プレーヤーだ。

写真集や画集、図録などは愛着のあるものもあるけれど、実際にはほとんど観ていない。
古本屋に売るという選択肢は端からない。寄付する先がさしあたって思い浮かばない以上、思い切って棄てるしかないのだろう。

わたし同様、もう彼らの役目も終わったのだ。わたしはそのようなものをあげることのできる友人を遂に持つことができなかった。

レコード・プレーヤーは、随分使っていないので、壊れているかもしれない。
高校時代からの友人で、こちらに来てからも何度もコンピューターの修理に来てもらったT君があのプレーヤーはいいものだから・・・と言っていたが、多少壊れていてももらってくれるだろうか?それが無理ならこれも処分するしかない。
からだがまだ動くうちにいろいろと処分したい。
ビデオも今時ほしいという人はいないだろうし、ビデオデッキが壊れてしまったので、これも処分するしかないのだろう。本であろうと、レコードであろうと、金にするつもりは毛頭ない。

57歳でもう先がないなんてちょっとヘンだろうか?

下手な文章。

ジュリエット・グレコにRIPというつもりはない。

Rest in peace 安らかに眠ってください。

Rest Paeceが欲しいのはこっちの方だ。





1 件のコメント:

  1. こんにちは, Takeo さん.

    Takeo さんがグループホームに入るという選択肢は無くなったのですね. それは日常の食事, 洗濯, 買い物といった作業が一人では行えないという Takeo さんの現在の状況によるのだと推察します.
    自治体の福祉職員による生活支援も受けられない. 受けられたとしてもそのことにより生き続けることに意味を見出せない.

    どちらに向かっても行き止まりになってしまう状況に見えます.

    今の段階で行政からの支援などについて私が助言できることは, あまりありません. せいぜい, 主治医の意見を聞いたりお母様に手伝っていただいて福祉課で Takeo さんの状況を話して何か道が無いかを相談してみたら, という程度です. もっともそれも Takeo さんの前向きな意思が無ければどうにもならないでしょうが.

    私は, Takeo さんが感じている残り少ない時間がどうにかならないものかと考えています.
    Takeo さんが「身辺整理」という言葉を使うのは寂し過ぎます. この重苦しさは何でしょう.

    この世界では, 個人は自由に望む生き方を行うことができます. 私たちを取り巻く社会の中で何ものも成し遂げないとしても, 個人は自由です.
    Takeo さんも日常生活において幾らかの労力を使うことによって, 精神的に自由な生活を手に入れることができるのです. 問題は Takeo さんがそのようないかなる労力にも意味を見出せないことかも知れません.

    このように書くのは, 私がまだ Takeo さんとの対話を続けたいという欲求を持っているからです. Takeo さんとのやり取りを通じて私が得たものの大きさは計り知れません.

    特に Takeo さんとの対話を通じて, 私は心の病を持った自分の存在の意味とは何なのか, 私が求める治癒とはどのようなものなのかという自分自身への問いかけを発見しました. 自分が心の居場所を探し続けているということも自覚しました.
    そしてそれは Takeo さんにとっての実存や, Takeo さんにとっての治癒とは異なるものだともわかってきました.

    だから, 私は Takeo さんと対話を続けたいのです.
    病やについて私が感じたこと・考えたことを Takeo さんとの対話の中でより明確なものにしていきたいという希望があるのです.

    私は Takeo さんに対して非常に身勝手なことを書いています.

    Takeo さんの「身辺整理」によって, そのような対話の可能性すらも閉じられてしまうのでしょうか?
    私はその対話の通り道を塞いでほしくはありません.

    身勝手ではありますが, 一友人の心からの言葉と思ってくだされば幸いです.

    どうか Takeo さんが闇の中にあっても行く先を見出だせますよう, 祈っております.

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