2020年9月15日

何処へ行くのか


今年の夏を振り返ってみると、わたしと弟のふたりの五十代の障害者と、母一人がすべてをこなすという形での生活はもう成り立たない。ここ数年・・・最近は月を追う毎に、できることが少なくなっている。いうまでもなくその分が母の新たな負担となる。

来年の夏、今の場所で、いまの形態で生活することができない以上、他に暮らす場所を探さなければならない。
たとえばグループ・ホームということを考える。「グループ・ホーム」といってもどういうものなのか、まるで知識はない。けれども例えば「一つ屋根の下」というような形であるなら、わたしには無理だ。そういうことができないから、わたしは結婚とか(文字通りの)同棲というものを考えたことがない。唯一の例外である母を除いて、わたしは「他者」と共同生活することはできない。(気の合う友人との旅行くらいは別だが・・・)

仮に一つ屋根の下でなくとも、協調性が必要だったり、ルールに従うことを求められるようなら、それもまた大きな障壁になるだろう。
わたしはほとんど酒は飲まない。或いはのまないでもいられる。けれども、「ここは禁酒!」という「規則」が嫌いなのだ。
自分に関係がなくとも、何かが禁止されているということに強い心的抵抗がある。
極端なことを言えば、駅などに貼られている「痴漢は犯罪」店で見かける「万引きは即警察に通報します」というような「警告」が大嫌いである。

別に犯罪を奨励礼賛するわけではない。「正義」とか「善行」とか「良いこと」というものが肌に合わないのだ。

また、わたしは雑談というものができない。関心のない話でも耳を傾ける、ということができない。コミュニケーションを必要とされる場ではどうしても孤立してしまう。作業所などで苦痛なのは、作業以上に、人間関係=人づきあいかもしれない。
「これおもしろいから!」と、本やDVDやCDを薦められることが大の苦手である。
つまり「規則」同様に「義務」「ねばならない」(観なければ、読まなければ)という(ある種の拘束・束縛)が苦痛なのだ。

家(内)でも外でも「できない」ことばかり・・・
仮に来年の夏まで生きていたとしたら、果たして何処で、どのように暮らしているのだろう。









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