2020年9月25日

精神病者、精神障害者は如何にして生きるのか? 断想・・・


神谷美恵子は人は誰しも「生きがい」が無ければ生きてゆくのは難しいと書いた。或いは「精神障害者は・・・」という限定があっただろうか?
ではその「生きがい」というものを、人は、精神障害者は、果たして何処で、どのようにして見出しているのか?そして何故わたしにはそれが見つけられないのか?

過去に、このような畸形ブログにも、充実した、中身の濃いコメントを残してくれた人が数人いた。例によってわたしの主訴である「他者と良好な関係を築けないーその関係を維持できない」ことに因って、今、その人たちをインターネット上の「友人」と呼んでいいのか、躊躇いがある。それは最早彼らはわたしの友人ではないというニュアンスではなく、わたしなどが「友人」を僭称していいのかという逡巡である。


彼は重い鬱病に長く悩まされている。苦しめられている。
彼はクリニックで、鬱が苦しくても、多少の無理ができる時には動いた方がいいのか、或いは無理は禁物なのかと医師に問うたと書いている。
医師の答えは、
「とりあえず小さな行動をやってみて, それができたら次の小さな行動をやる. これを繰り返す.途中で苦しくて駄目になったら休む.
鬱が酷いときは別として, まったく行動しないで休んでいるだけだと精神的肉体的にどんどん衰えていってしまう.」というものだった。

わたしはこのやり取りを読んで非常に不思議な感覚を覚えた。
彼のブログにも書いたことだが、わたしには「できる」か「できない」かの二択しかない。
できるからやる、できないからやらない、だけである。彼が言っているように、できないけれども多少の無理をして・・・と言ったある意味複雑で中間的な行動はわたしにはできない。

「底彦さんのブログを読んでいて、屡々感じるのは、なんといってもその生命力です。
わたしなら、そもそも上記のような会話が医師と交わされるということは絶対にありません。つまりわたしの辞書には「頑張る」とか「努力する」という言葉が端から欠けているのです。底彦さんは良くも悪くも、何かにがんばったこと、無理をしたことがありますか?わたしにはないと断言できます。

基本の基本に、何故そうまでして生きなければならないのか?という気分が常に常駐しているからです。「頑張った」見返りが「生きること」という意味がわたしには理解できないのです。至極単純にいえば、人生って、頑張って生きるほどの価値があるのか?という気持ちです。

それは「人による」のだと思います。少なくともわたしに関してはその価値は見い出せません。
「障害者の生きる権利」と同様に、これは個人的な想いであって、それを一般化するつもりは毛頭ありません。わたしが逆に医師から、もう少し頑張れますか?と訊かれたら「何のために?」と反問するでしょう?」

わたしは彼の文章に上のようなコメントをした。


がんばって、良くなって、さてその先に何が待っているのか?
わたしはいつもこの地点で立ち止まってしまう。

「生きられるようになった」ことと「生きる」こととは、似て非なるものだ。「生きられる」ということは手段である。「生きること」は目的である。生きられるようになった=良くなったという時点では、未だ手段を手にしたに過ぎない。「生きる」ためには目的・・・神谷美恵子のいう「生きがい」エミール・シオランのいう「動機」が不可欠なのだ。
わたしはどうしてもそれを見つけることができなかった。

何故わたしだけがそれを見出すことができなかったのか?

わたしだけではないというのなら、何故「あなたは」生きていられるのか?


わたしは木村敏のいう「自明性の欠如」=「あたりまえということがわからない」や、「自分が他の人と同じ人間(生き物)であるという実感がない」(分裂病)そして「対象の喪失による実存の危機」(境界例)などの症状に恒常的に悩まされている。わたしが「この不思議な世界」や「公衆電話のない世界に生きるということ」で引用した木村敏の世界は、単に、木村敏の思索が生み出した「哲学の世界」ではなく、確かに、それによってわたしが苦しめられている現実の状態・症状に他ならない。

ではこの「あたりまえということがわからない」=「自明性の欠如」とか、「外界の変化が自己の変化に直接関連する」=「境界例に於ける直接性の病理」といった世界の中で苦しみもがいているのはわたしだけなのだろうか?
「べてるの家」の人たちもやはり「あたりまえがわからない」という状態に苦しめられているのだろうか?だとすれば何故彼らは「勝手に治すなオレの病気」と言い得るのか?

わたしには「病気との共存」は極めて困難だ。── であれば「存在」マイナス「病気」でいいのか?しかしそれでは単に「生きられる状態」になった=振出しに戻ったことにしかならない。目的のない「人生ゲーム」(双六)で賽を振ったところで何になる・・・

そして現実にわたしが苦しんでいる「あたりまえということがわからない」「対象と自己との一体化」ということを、保健所の保健師に話して何故通じないのか?何故精神保健福祉センターの精神保健福祉士はわたしが何に困っているのかわからないというのか?
彼らは分裂病患者を診たことがないのか?発達障害や境界例の患者と話したことはないのか?

それとも木村敏はただ自分の頭に沸いた考えを思い付きでパーパーと「書き散らしているだけ」なのか?だとしたら何故、わたしがここまで彼の言葉と自分の苦しみとをピッタリと重ね合わせることができるのか?


仮にグループ・ホームに行って、たとえばこれまで母が全部やってくれていた洗濯や買い物を自分ですることになるのなら、わたしは餓死してもいいと思うのだ。何故って、わたしは買い物をするために、掃除洗濯をするために生まれてきたのではないような気がするからだ。逆にわたしが母に対して、存在していることの罪を感じるのは、わたしがいるばかりに、母が自分の時間をわたしの買い物、わたしの洗濯に費やさなければならないからだ。

人は、髪を切るために、爪を切るために、顔を洗い歯を磨き入浴し、掃除をし洗濯をするために生まれてきたのだとしたら、そんな世界からは一刻もはやく立ち去りたい。

「じゃあいったいお前はどうなれば満足なんだ!?億万長者になってハーレムでも造りたいか?」

「金があって何になる?美女に取り巻かれて何がうれしい?わたしは金をいくら積んでも買えないものが欲しい。」

「それはなんだ?」

「生きがい!」

「それは何処にある?」

「わからない」

「じゃあそれは何だ?」

「それも、わからない・・・しかしおそらく現代社会では見つけることはできないだろう」


生きるということ、生きているということは、仮に吾人が健康で健常であっても、それはひとつの「病」でありひとつの「傷」ではないのだろうか?
存在するということが即ち「傷」であることではないのか?
そうでなければ何故生きるということはこんなにも痛みを伴うのか?

上に

「わたしの辞書には「頑張る」とか「努力する」という言葉が端から欠けているのです。」と「彼」へのコメントに書いたと言ったが、わたしが少なからず頑張っていることがひとつだけある。それは存在しているということ。無理をしなければ、「存在」などできない。














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