2020年9月7日

「自明性」とは?


みなさんはクリニックに行く前に、今日はこんなことを話そうと予め考えて行かれるのでしょうか?

わたしは今度の金曜日に、記憶にある限り、今年初めて主治医のところに行く予定です。今月に入り、ほんとうに「目に見えて」体調が悪くなっています。
或る人のブログに頻出する「苦しい」という言葉が、「我が事」になっているようです。

金曜に主治医のところに行く予定であると言いました。けれども、わたしは非常に混乱し、戸惑っています。つまりわたしは依然として「何をどうしたいのか?」がわかっていないからです。

これは木村敏に吹きこまれたわけでも何でもなく、わたしにとって、この世界は「不思議な世界」です。そしてある大学教授が書いているように「患者側にとって、主体的に治療に参加するということは自分が病んでいるということを認めることだ」ということをとりあえずの前提とするとして、そもそもわたしは自分が正常であると感じたことはこのような状態になってから一度もありません。わたしは自分を狂人であるとさえ考えています。ではわたしには既に「主体的な治療」に要する自覚が備わっていると言えるのでしょうか?

わたしはただ、「自分は正常ではない」「自分は狂人である」という認識を持つだけです。言い方を換えれば、自分が「どのように」「病んでいる」のかは、全く分かりません。肝心なのは、自分は病んでいる、正常ではないという自覚があることであって、「どのように病んでいるかは医師の判断に任せればいい」のでしょうか?

「精神病とは関係性の病である」と言ったのは誰だったでしょうか。

嘗て群馬県にある三枚橋病院の創立者だった人は、患者が退院してゆく際、「きみの病気の原因は家族関係にある、それが手つかずのままではまたすぐにここに逆戻りだ」といって、患者の家族全員を集めて話し合ったといいます。つまり患者自身の症状は治まったが、原因(=良好ではない「関係性」)はそのままであるという判断です。


わたしが良くなるということは、とりもなおさず、失われた自明性の回復ということでしょうか。


では自明性とは何でしょうか?

所謂「ニュー・ノーマル」── JRのCMの言葉で言えば「これからのあたりまえ」というものでしょうか?

自明性というものは「これからのあたりまえ」という風に、昨日までの自明性が明日からは最早自明ではなくなるということでしょうか?


なるほどこのように見てくると、わたしのいう自明性の喪失というものと、木村敏の言う自明性とは若干趣を異にしているようです。

けれどもわたしは何故ほとんどの人たちが、何の抵抗もなく「これまでのあたりまえ」から「これからのあたりまえに」ほんとうに当たり前のように「乗り換えることができる」のかが、まったく「あたりまえではなく」わからないのです。

まるでモードのように、年年歳歳移ろいゆく、「これからのあたりまえ」に乗り遅れないこと、それが即ちわたしが良くなったということなのでしょうか。

だとすれば、はたして「わたしをわたしたらしめている確たるもの」とは、わたしを支えている確かな足場とは何処に存在しているのでしょうか。昨日の世界が最早明日の世界ではないとすれば。そして昨日までの友人が、既に今日のニュー・ノーマルに飲み込まれているとしたら。

今わたしが漠然と感じている自分がバラバラになってしまうような感じ。それはとりもなおさず外の世界に、常に変わらず「そこにある」と言えるものをなにひとつ見つけることができないからではないのかと感じています。










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