2020年9月23日

ワタシハ ドウスベキナノカ?

 
わたしはいまどうすればいいのか、まるでわからない。外に出られないから仕方なく家に、自室にいるのだが、心は一向に安らぐことはない。所謂「将来に対する不安」や「どのように社会復帰をしたらいいのかという葛藤」によるものではない。ようやくエアコンをつけづに窓を開けて過ごせる時期が訪れたのだが、外の音、主に車のアイドリングや、同じように、ドアをロックする音なのだろうか?「ピピッ」とか「ピコピコ」いう音が神経を逆撫でする。一日中、真夜中になるまで窓を開けたり閉めたりしている。それに疲れて窓を閉じたままにしているか、エアコンを使う。もうこれ以上こんなことに神経をすり減らしてはいられない・・・

喫煙者である弟がさっきまでいた場所、すれ違う時などの煙草の臭いに耐えられない。
トイレも、家族であっても、人が出てすぐには入ることができない。

いったいいつごろからこのような状態になったのだろうか?


先に書いた、大田区で17年間過ごした部屋だが、これほどまでに執着するのは、都内であのような部屋を見つけられたことがほとんど稀有なことだったからだ。

わたしは26歳の誕生日にその部屋に入った。部屋を探す時の条件は、最上階の角部屋であること。よほど頑健に作られた鉄筋コンクリートのビルでもない限り、上の階の物音、足音が気になって仕方がない。そうなると当然隣は片方だけであるに越したことはない。また仮に完全な一軒家であっても、2~3メートル離れて隣家、などというところもダメ。所謂「生活音」と言われる音の許容量が極めて小さい。母は、わたしはほとんど何処にいるのかわからない、気配がしないと言う。自分が隣人の「気配」に極度に神経質なので、隣人もまたそうであろうという配慮から、できるだけ音を立てない生活をしたいと思っている。実際に実行できているのは戸の開け閉てと、音を立てずに歩くくらいだが。

都会に住んでいて、そのような感覚を得られる者はまずいないだろうが、ほんとうに、心からの「安息」というものを望んで已まない。

心身共に疲弊しつくし、仮に入院したとしても、わたしの望む安息は求むべくもない。入院というのは安息を得るためにするものではなく、仕方なくするものだ。
診療科が何であろうとも、入院生活に安息はない。


いづれにしてもこう慢性的に神経を尖らせていたのでは家族であってもとても共同生活はできない。

弟はここに帰ってきたい。ここで母と暮らしたいと思っている。だからつい長居することが多くなる、弟が帰らない間はわたしは部屋から出られない。あ、外でまた車がアイドリングしている・・・加えて先に書いたように、わたしも、母も、できないことが多くなっている。弟のことを抜きに考えても、来年の夏、わたしと母がここで一緒に暮らすことは無理だ。

明日母が、市役所にグループ・ホームの体験入居(=ショートステイ)についての説明を聞きに行ってくれる。わたしは仮に現在のような状態でなくても、共同生活というものには向いていない。協調性はほとんどないに等しい。生活保護を受給して独り暮らし?これは無理だ。わたしは訪問恐怖症である。ドアのノック、電話の音、チャイムの音が怖くて仕方がない。馬込にいた時から、宅配便が2時から4時までの間に来るなどと言うと、その2時間、生きた心地がしない。何かの修理・点検でも同様で、何度その緊張に耐えられずに外に逃げ出したことか。前に書いたかもしれないがわたしの部屋の電話は発信専用であった。365日24時間、着信音を切っていたから。いつ電話が鳴るかと思うと片時も落ち着いていられない。掛けるときには饒舌である。

つまりわたしは既に30年前、20代の頃から「フツウ」ではなかったのだ。普通の人のいちばんの心配事であり、安息を妨げる「仕事をしなければ・・・」という焦燥感を感じたことはなかった。高校時代のアルバイトから35歳で完全に仕事をして金を稼ぐということを止めるまで、何度「もう来なくていいよ」と言われてきたか。パワハラという言葉はなかったが、そのようなことはどこにもなかった、ただわたしは何もできなかった。

現時点では「グループ・ホーム」というものがどういう場所であるのかは全くわからない。
けれども、家族との関係をこれ以上悪化させないためには、とにかくここに居続けることはできない。




「ただの一瞬の休止もなく、わたしは世界に対して外在している」

「生涯、私は、自分が本当にいるべき場所から遠ざけられている、と考えながら生きるのかも知れぬ。たとえこれまでのところ、<形而上学的流謫>という表現に何の意味もなかったとしても、私の生活はそれだけで、この表現に一個の意味を与えている。」

「畑の中に横たわって、土の匂いを嗅ぎ、土こそが私たちの現世での右往左往の終点でもあり希望でもあると考える。
憩いを得て、分解され、溶けこんでゆくべきものとして、土(大地)以上のものを探すのは無駄な事なのだ。」


ーエミール・シオラン











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