2020年9月18日

或る夜の断想・・・


 「わたしの本能」「わたしの感受性」「わたしの美意識」「わたしがわたしであること」・・・これらを常に最優先にしてきた。しかしそのことによって自分以上に苦しんでいる人がいるのなら、最早「わたしの・・・」を手放すべき時ではないのだろうか?
無論「自己」というものは、そう簡単に確立したり、破壊したり、手放すことのできるものではないということは重々わかっているが。


「ブログは、わたしの生きた証し」・・・けれども、ブログに「わたしのすべて」を注ぎ込むことによって、却って弊害が生まれるのなら、ブログの位置をもっと格下げ・・・というよりも、ブログの在り方を変えてもいいのではないか?
ブログは所詮「日記」とは異質のものだ。

以下、ふたつのブログの記事を敢えて名前を伏せて引用する。

でも、そんな時代だからこそ、引きこもりという生き方も一つのライフスタイルとして市民権を得られる契機になるかもしれない。誇れない生き方としての引きこもりがライフスタイルの一つとして認知されたなら僕の引きこもり生活の心苦しさも少しは軽減して生きやすくなるんじゃないかと思う。

わたしは以前、これと似た論旨の文章に反論を書いたことがある。

「コロナによってみなが外に出ない(出られない)時代になることで、活き活きしてきた引きこもり・・・」というものに強い違和感を感じたからだ 。

しかし、そのことをここで正面から反論すると

やりたい放題の人間ほど、やたらと元気そうに見えた。
それはある意味事実だろう。他人に嫌がらせをすることで、相手から心的エネルギーと呼べるようなものを強奪し、吸い上げて彼らは生き生きするのだから。

というような事態を招きかねない。所詮それが「インターネット」である。

それが可能かどうかわからないが、今回、約10年間使ってきた「ブロガー」のインターフェイスが全面的に仕様変更されたことを契機に、もう少し「アート」「文芸」といった、「ブロガー」が本来持ち味とする使用方法に舵を切った方がいいのかもしれないと考えている。

しかし残念なことに、同じ写真や絵の投稿を、ここと、アートブログの双方に投稿した後の反応の違いはどうだ。やはりここでもわたしのTumblrの1万5000人のフォロワーのうち、日本人が100人(=1%)もいないという現実が如実に証明されている。

             ものいえば唇寒し秋の空 (芭蕉)

と思い、「わたし」を抑えて「アート」を投稿しても、もう一つのブログが、まるで外国人しか閲覧できないブログのような様相を呈しているのを見ると、日本のブログでわたしのし得ることはいったい何なのかと改めて考えてしまう。



◇追記◇


上記引用記事のうち、前者は明らかに「批判的な文脈」で用いた。これは明らかにアン・フェアであり、わたしの最も嫌うやり方である。

上記引用の出典は「孤独中年男の細々生活記というブログの800年でも足りない
という投稿からの抜粋である。批判的なニュアンスの引用である。文責はわたし「Takeo」にある。ていめいさん、申し訳ありません。お詫びとともに、反論を歓迎します。

*(これは「被害者を特定させず、法が手出しをできない方法で誰かを批判・中傷するというやり口が最も悪質」という法務省人権相談の言葉に従いました)








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