2020年9月20日

かわいそうなのか?バカなのか?


以前、このブログに対し、つまりわたしに対して直接嫌がらせをしてくる人物について、またその後、「間接的に」間違った「引きこもり」に対して「正しい自分たち」の立場から執拗に批判・嘲弄をし続ける人間たちに対して、複数の人たちから「かわいそうな人たち」という表現が為された。
わたしにはどうして人の嫌がることを嬉々として行う者たちが「可哀想」であるのかがわからなかった。けれども最近になってなんとなくではあるけれど、それがわかるような気がし始めている。無論完全に「わかった」「理解した」わけではない。

つまり彼らの幸福というもの、或いは俗にいう「現実生活の充実」というものは、彼らの裡で完結しているものではない。ジュール・ルナールであったか「自分が幸福なだけでは不十分だ。他人が不幸でなければ」と言ったのは・・・

つまり自分の幸福半分プラス他人の不幸半分を足して、初めてなんとかかんとか「彼ら」のいう「現実の充実」や「幸福感」が賄われている。そのような自立できない幸福、他者の不運・不幸に依存しなければ保つことのできない幸福を「私の幸福」「私たちの幸福」と思い込んでいるということは、確かにある見方からすれば「かわいそう」と言えなくもないのだろう。

けれども、現実に「他者の不運・不幸」に依存しない「自立した幸福」などというものが存在するのだろうか?
幸福とは所詮相対的な感覚でしかないのではないだろうか。

誰しもが、人の不幸という「蜜の味」を味わうことで、
人を謗(そし)るという「鴨の味」を賞味することによってはじめて「シアワセ」を実感し得るのではないだろうか?

もし仮にこのようなわたしの考え方が、相当歪んでいるというのであれば、何故人は、人の嫌がることを進んでしたがるのか?

何故「差別」をし、いじめ、人をからかうのか?もし夫子自身にその自覚が欠けているのであるなら、それは「カワイソウ」どころではなく、単なる「バカ」ではないのか?





 


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