2020年9月20日

自分がわからないということ

 
このひと夏でわたしは嘗てないほどに変わった。生きる気力などまったくない。と同時に、10代の頃から親しんで(?)来た「自死」ということも、ほとんど考えなくなっている。「生」からも「死」からも随分と遠ざかってしまった。「生」からも「死」からも・・・正確に言えば、(わたし自身の、わたし固有の)「生から」(わたし自身の、わたし固有の)「死から」。

死ぬ時期を逸してしまった。

最近気になっているブログがある、コメント欄も設けられていないし、メールで連絡することもできないので、仕方なく無断でここに紹介する。共感するところの多い内容である。けれども、いったい誰が言い出したのか、昨今流行の「毒親」という言葉は悲しい。

わたしが何よりもこころを痛めるのは「幼児虐待」と「毒になる親」という表現である。
いや、現実に毒になるだけの親の存在はいつの時代どこの国にもいた。けれどもそれを「毒親」ということばで表現する事に激しい抵抗がある。

先日「グループ・ホーム」について尋ねるために市の障害者福祉課に電話をした。対応してくれた女性は親切であったが、頻出する「~みたいな」とか「ちがくて」という言葉に眉を顰めた。そして、「こういう言葉遣いをする人は信用できない」と思っている自分に気づいた。

二階堂奥歯の言っているのとはまったく違った意味でだが、わたしにとっても「世界は言葉で出来ている」

わたしにとって「害になる親の言動」と「毒親」というものはまったく、それこそまったく「別のもの」である。


最近、老い、衰えた母を、老いて衰えて、認知症の疑いのあるわたしが、屡々嫌悪の目で見ていることに驚いている。母の衰えに、母の動作の鈍さに心の中で舌打ちをしている。母以上に何もできない不具者がである。
「わたしの本能」「わたしの感受性」「わたしの美意識」が、わたしに背いている。
老いるということは、自分の心身の醜さを見せつけられることであった。
「友は前から刺す」── 「わたしの本能」「わたしの感受性」「わたしの美意識」がわたしを苦しめる。しかしわたしの内面をわたしに背かしめる「関係性」とはなんだ。

いろいろ不満はあるだろうが、家族と一緒に暮らさなくなった父はこれでよかったのかもしれない。

自殺を熱心に考えなくなった・・・最も「それ」が必要な時に。

これが俗にいう「廃人」という状態なのかもしれない・・・











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