2020年9月25日

終わりに見た街・・・(街はあるのか?消えたのか?)

 「猫額洞の日々」の本日の日記に以下のような文章を見つけた。




 連休中だったし、都内にだって人が出ているとは予想したが、
もう矢も盾もたまらず、地下鉄に乗り、東を目指し、うれしくて
歩き過ぎ、帰ってきてからブログを書く元気がなかった日の顛末

を、少々。


 近場歩きのためにバスに乗るのは、あまり気にならない。バス停の
間隔が短いから、停まる度に換気されてるような気がする。あくまでも
"気分"の問題で、実際はどうなんだか。
 それに比べて地下鉄に50分くらい乗らないと着かない東行きは、
決心がいる。決心というより、やけを起こしたのかな。



 町/街の空気に飢えていた。換気用に窓が一部開いている、かなり
騒音がひどい大江戸線を下り、地上に出た瞬間、「うれしい!」と
思う。町/街が迎えてくれた。まだ町/街があった。
(下線・太字Takeo) 


わたしの苦しみの大部分が、わたしが外に出ることのできない原因が、正に「街が消えた」(=トウキョウとは街(町)のない都市である)という感覚であるのに。この違いは・・・これはやはり狂人ー健常者の相違であるのか?

以下に続く文章はさすがに引用するに堪えない。
文章がまずいというのではない。
これが同じ東京に住む人間の感覚(感受性)なのかという驚きと激しい当惑のためである。

いったい何を以て、何を指して「街」「町」というのか・・・


P.S.

猫額洞さん無断引用ご容赦を。


P.P.S.

「近場歩きのためにバスに乗るのは、あまり気にならない。」

わたしは電車にもバスにも乗れない。乗ったとしても20分が限界だろう。それでさえかなりの苦痛を伴ってだが。
何故なら「うるさい」からだ。中島義道いうところの「日本の文化としての騒音」に堪えられないからだ・・・













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