2020年9月28日

グループ・ホームへの転居について、その他の断想

 
グループ・ホームへの入居、それ以前の体験入居(ショート・ステイ)についての手続きは全て母にやってもらっている。次はこの市内にあるいづれかのグループ・ホームのスタッフとの面談ということになる。わたしの現状・状態を把握するためだ。その面談を元に所謂「等級」というのか、わたしの「レベル」が確定し、更に今度は市の障害者福祉課の保健師との話し合いを行う。その後何やらの「審査」に約2か月ほどを要し、やっとショート・ステイということになる。

一昨年であったか、似たようなことがあった。地元の精神科単科病院のデイケアに通うために、プログラムへの「体験参加」を2回、デイケア・スタッフとの面談、最後にその病院の医師との面談があり、やはり2か月ほどの「審査」の後に、デイケア利用者となった。
わたしはデイケアに是非参加したかったが、「わたしのような人間」が「審査」に受かるはずがないと半ばあきらめていた。ところがどういうわけか審査に通り、昨年初頭から通い始め、今年の3月3日まで約1年以上、月3回ほどのペースで主に午後のプログラムに参加してきた。そして9月3日、デイケアから去った。

今回の「審査」は受かるも受からないもない。わたしの現状を知り、どういうタイプのグループ・ホームが適当かを検討するものだから。


わたしはかれこれ10年ほど前から障害者手帳3級である。しかし今の状態を考えると、どうしても3級とは思えない。これが2級であれ1級であれ、わたしにはなんのメリットもないのだが、どうしても現状とはかなりかけ離れてるように思う。

精神障害者保健福祉手帳の障害等級の判定基準について

かなり古いもので、今時はこんな判定基準に基づいてはいないだろうが、検索能力のないわたしにはこのくらいしか見つけることができなかった。
例えば障害等級1級の「能力障害」には以下のような判定基準が記されている。


1 調和のとれた適切な食事摂取ができない。

2 洗面、入浴、更衣、清掃等の身辺の清潔保持ができない。

3 金銭管理能力がなく、計画的で適切な買物ができない。

4 通院・服薬を必要とするが、規則的に行うことができない。

5 家族や知人・近隣等と適切な意思伝達ができない。協調的な対人関係を作れない。

6 身辺の安全を保持したり、危機的状況に適切に対応できない。

7 社会的手続をしたり、一般の公共施設を利用することができない。

8 社会情勢や趣味・娯楽に関心がなく、文化的社会的活動に参加できない。

(上記1~8のうちいくつかに該当するもの)


1 はよくわからないが、入院でもしているなら別だが、実際にこのようなことが出来ている人が、健常者も含めてどれくらいいるのだろうか?

2 清掃はほぼできなくなっている。畳1畳半くらいのカーペットに掃除機をかけることすら億劫で出来ていない。

3 ほとんど買い物をしたことがない。

4 は正にその通り、電車に乗らなければならない主治医のところへは、今では年に1度か2度行く程度。

5 も、まさにその通り。言葉が通じない、他者と意思の疎通が不可能というのがわたしの主訴なのだから。加えて、「義務」「規則」「ルール」といったものに抵抗がある。

6 もそうだと思う。

7 歩いていける範囲の図書館にも母に行ってもらっている。何故なら図書館の職員と反りが合わないから。何度か嫌な思いをしている。またここで屡々書いているように、市や保健所の保健師とも話が通じない。

8 もその通り。このブログをある程度継続して読んでくれている人なら誰でも頷くと思う。


これが「2級」においては、援助を受ければ上記のことができる状態となるようだ。
その唯一の「援助者」が、これまでは母であった。
繰り返すが、わたしと意思の疎通が図れるのは母以外にいないということ。そして母は、これ以上ふたりの50代の障害者の面倒を見ることができないということ・・・

上の「規準」に従えば、わたしは4、5、8に完全に当てはまる。 4に関しては介添えがあればなんとか・・・それにしても電車で二駅くらいが限界だろう。7にも「ほぼ」当てはまる。わたしは今では付き添いがあろうとなかろうと、美術館にも、コンサート会場にも行くことができない。「イベントあるところスマホあり」・・・

しかしこの文書はおかしくはないか?この書面には、1級の「能力障害」の状態に関する上記の設問について、「支援者が存在しない場合」という但し書きがない。つまりこれは「ひとりでは✖✖ができない」という意味に受け取れる。だとすればこれは一番軽い状態に当て嵌められるべき設問群ではないだろうか?


「ひとりで公共交通機関を利用できる」というような設問があれば、わたしの答えは「いいえ」である。何故?うるさいから。皆がスマホに見入っているから。それを敷衍すれば、外界が醜いから・・・だとすれば、電車やバスに乗れるか、という以前に、「ひとりで散歩ができますか?」という問いに対しても当然「否」である。何故か?樹が伐られているから。爆音を響かせて枯葉がゴミのように吹き飛ばされているのを見るのが厭だから。去年まであった家が無くなっているから。

じゃあ「援助者」がいれば電車にもバスにも乗れ、散歩も出来ますか?

そもそも「援助者」とはどのような者を言うのかがわからない?家族か?友人か?恋人か?

施設の人?施設の人に援助してもらってまでいったい何をしたいのか・・・


たとえば、二階堂奥歯にしろわたしにしろ、「この世界で生きることができる」という規準にはそもそも当てはまらないのではないだろうか?
それは障害者等級「何級」にあたるのだろうか?「人間未満?」・・・


ここでの問題は「援助なしではできない」「援助があれば可能」という部分だ。繰り返すが、わたしの主訴は「他者と良好な関係を築くことができないーその関係を維持することができない」である。そしてわたしが知りたいのは「援助者」とは「他者」とどう違うのか?ということだ。

今月3日でデイケアを辞めたと書いた。それはデイケアのスタッフが、他ならぬ「他者」だったからではなかったか。











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