どんなに不便でもスマートフォンを持ちたくないという感受性はどこから来るのか?
無論それは「皆と同じでありたくない」という気持ちから来ている。
そしてそれは旧式の携帯電話を「ガラケー」と呼びたくないという気持ちと通じている。
以前書いたことに照らし合わせると、皆にとっての「あたりまえ」がわたしにはまったく「あたりまえ」ではないということ。何故それが「あたりまえである」のか、更に言えば何故それが、どういう経緯で「皆の」「あたりまえになった」のかが理解できないということ。
◇
あるサイトで知り合った人がいる。その人は携帯電話なので、こちらからは(料金の問題で)電話を掛けることができない。メールでやり取りしているのだが、G-Mailというのがどうしても苦手だ。例えば、「月末にでも会いませんか?」というメールが来ると、
その下に「いいですね」「最近忙しくて」「先のことなのでわかりません」と言ったような言葉が表示される。この表示が目障りでメールができない。送信側でそういう表示を消すことができるのかもしれない。けれども、そんなことまでいちいちお願いしたくない。
わたしにとって唯一実際に会って話せる人なのだが、それ以上にわたしはG-Mailの「お節介」が厭で、もう切れてしまっても仕方がないと思っている。
たとえばパソコンも携帯電話も持たない人は、極端ではなく、どのような方法で現代社会と繋がりを持っているのだろうか。
わたしは決して自分の感性がマトモだとは思っていない。マトモであってもなくてもこれがわたしの感受性なのだ。けれどもこのような感性ではとても「現代社会」の中で生きていくことはできないだろう。
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