2020年9月11日

断想・・・


二階堂奥歯は、絶えず「信仰」についての葛藤の中にいたように見える。

「自己」を放棄して「神の意思」に従ってもいいのか?
身を委ねることで楽になりたいという気持ちと、自己を手放してもいいのかという迷いの中で苦しみ、思索を続けていた。

わたしもまた、「現実世界」「いま・目の前にある世界」に身を委ねれば楽になれる。
けれどもそこには二階堂にあったような迷いはない。彼女の目にも、神という存在は魅惑的であっただろう、けれどもわたしにとって現実世界とは単に醜悪な存在でしかないのだ。



1984年から86年にかけて連載された星野宣之の『2001夜物語』上巻の一作だけを読んだ。『2001夜物語』は上下巻に分かれていて、それぞれに10話づつ収録されているSFマンガで、数年前、上下巻を通して読んだが、上巻に収められている、「第8夜」が読みたかった。

あまりにも卓抜した作品なので、わたしがここで解説めいたことをいうのは敢えて控えるが、関心を持たれた方は、できれば2007年に発行された「光文社コミック叢書」というA4版で読んでいただければと思う。  

「神」について考えさせられる作品である。

わたしは特定の信仰は持っていないし、死ねば無になる(そうあってほしい)と思う者だが、人間を超えた存在、人間以上の大いなるものの存在を創り、人間の放恣を掣肘・制限するということは良いことだと思う。

キリスト教に限らず、「神」=人知を超えた存在=人間以上のものを持たない文化は貧しい。
「神」という存在を人間が作り上げたのだとしても、人間の力を、能力を超え、人間に轡を嵌める存在を創造したということこそが、人類最大の叡智ではなかったろうか?

モーツァルトやバッハのオラトリオを聴き、ルネサンスーバロック期の宗教画を観るにつけ、神という存在に畏怖の念を覚えずにはいられない。

信仰するにせよ、それを拒否するにせよ「神」という対象を持たない日本人というものの限界と、そして敢えて言うならば「原罪」を感じる。


「智慧の実」(Apple) を食べて、人間は果たして神から離れるとともに真の「叡智」を獲得し得たのだろうか?

今人間は、ひたすら退化しているだけではないのか。














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