2020年9月16日

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今年の夏、わたしも、母も、掃除ができない状態が続いた。掃除は本来はわたしの仕事だ。台所と、ほんのわずかなスペースに簡易モップをかけるだけだが、それができない。ひと夏、自分の部屋に掃除機をかけることもできなかった。別に「汚れやホコリでは死なない」のだが、わたしは「掃除ができない潔癖症」である。

来年の夏にはグループ・ホームか「シセツ」のようなところに行かなければと考えているが、それまでの期間・・・涼しくなったからと言って掃除ができるようになるという保証はない。それでなくても一日に自分の時間が睡眠時間を除いて2時間もない母に、掃除をする暇もなければ元気も無い。(9時前に起きる母が寝るのは、毎晩ほぼ0時前後だ)障害者ふたりの面倒を何から何まで見るということはもう、もう、限界なのだ。

けれども、わたしが仮にどこかに移ったとして、もともと「非社交的」を絵にかいたような人間が口を利く相手などいるはずがない。現に弟は文字通り誰も話し相手がいないから、母と話に毎日通ってきている。

わたしが暮らしの場を替えるということは、とりもなおさず、人と口を利かない生活を始めるということに他ならないのではないだろうか?そしてそれはいわば母の死の先取りではないのか。

母の命が尽きた時に自らも命を絶つと言っているのは、母の存在だけが、この世界との、そしてわたしがわたし自身と繋がれる唯ひとつの「点」であるからに他ならない。上記のような理由から、最早一緒には暮らせないことは明らかだ。けれども、わたしがいまから誰とも口を利かない生活を始めることに、いったいどのような意味があるのだろうか・・・いや、そうではなく、母が少しでも楽になることが第一義でなければならないはずだ。











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