2019年1月28日

通じ合う、つながり合うとはどういうことか?


わたしの問題は・・・もちろんひとつではないが、大きな問題の一つとして、他者との交流の不能ということがある。

人(他者)と言葉が、気持ちが、心が、通い合うということはどういうことなのか?
なぜわたしは常に誰とも、文字通り誰とも「通じ合えず」「理解し合えない」のか?


わたしはここで、「わたし」「他者」「人」「心」「通じ合う」「理解する」という言葉を便宜上使っているが、では「わたし」と「他者」とはどう違うのか?
(ランボーは嘗て「私とは一個の他者である」と言ったが、「わたし」は完全に、100%「わたし」なのか?)
「わかりあう」とか「理解する」というのは、厳密にはどういう状態を指すのか?
また、人間を人間たらしめているものはなにか?更には、人間とは何で、わたしはそもそもその「人間」というものなのか?
誰がわたしを「人間」であると証明できるのか?どのような方法で?
そしてわたしを人間であると証明した者が「人間」であるということはどのようにして知り得るのか?


わたしはこのような疑問を知りたいと思い、図書館に資料を探してもらうことにした。といっても、自分でもどのようなことが知りたいのか?いったい何が解かっていないのかすらはっきりしないので、曖昧な問い合わせになった。

以下わたしのメールより

都立中央図書館レファレンス係宛て〔2019年1月18日〕

■質問内容
参考資料を探してもらいたい。

「内容」
50代の精神・知的障害をもつ男性です。探してもらいたい資料のテーマは、「他者と話が通じない」「意思の疎通の不能」について。
もちろん互いに日本語を話す者同士ですので、買い物や日常的な挨拶程度なら可能です。けれども、ちょっと深い話をすると誰とも話が通じなくなる。それは精神科医であってもカウンセラーであっても、保健所の保健師でも同じです。
そのように、いわば人間の姿をしたエイリアンのような存在である自分に悩む人間を描いた作品・・・

「テーマ」
孤独・孤立

「ジャンル」
木村敏の『異常の構造』という本の中に、「皆が自分と同じ人間であるという実感が持てない」という分裂病患者のエピソードが載っていました。わたしは分裂病という診断を受けていませんが、まさにその患者と同じ感覚を抱えています。
強いて違いを挙げるとすれば、その患者が
「皆が自分と同じ人間であるという実感が持てない」
というのに対し、わたしは
「自分が皆と同じ人間であるという実感が持てない」
というように、主体が逆転していることでしょうか。

特にジャンルは拘りませんが、おそらく、大きく分けると、そういう精神病理に関わるものではないかと思います。

何故自分は他の人と同じ人間であるという実感が持てないのか?
また現実になぜ他の人間たちと意思の疎通が困難なのか?
「価値観の相違」というものは、ここまで人を孤立孤絶させてしまうものなのか?

「結論」
他者と意思疎通が出来ない。また自分を人間であると思えないという状態について書かれた本。
現時点でジャンルは固定せず。

「キーワード」
オリバー・サックス、木村敏、精神疾患、等


これに対して、昨日都立中央図書館のレファレンスから回答が寄せられた。


都立中央図書館 社会・自然科学担当〔2018年1月26日〕

お寄せいただいたご質問(受理番号:XXX-XXXX)について、下記のとおり回答いたします。

<自我><他者><分裂病><精神疾患><精神障害><コミュニケーション><意思疎通><孤独><疎外>等のキーワードを組み合わせて、都立図書館の蔵書検索や下記のデータベース等で調査しました。
他者と意思疎通が出来ない、自分を人間であると思えないという状態について、類似する内容を取り上げた資料を以下にご紹介します。
資料名等の後ろの( )内は、都立図書館の請求記号と資料コードです。
資料1~2、4~10は都立中央図書館、資料3は都立多摩図書館で所蔵しています。

【調査したデータベース】
・「CiNii Articles」(国立情報学研究所)(https://ci.nii.ac.jp/)
インターネット上で公開されているデータベースです。
学協会刊行物・大学研究紀要・国立国会図書館の雑誌記事索引データベースなどの学術論文情報を検索できます。

資料1
『自我体験と独我論的体験 自明性の彼方へ』渡辺恒夫著 北大路書房 2009.5 (141.9/5085/2009 5016704240)
p.105-137「第5章 独我論的な体験とファンタジーの調査研究」
自分という存在が、すべての他者、さらには世界全体と対置され、自己の孤立性や例外性が強く意識される体験」(p.108)について、多数の事例・資料を引用しながら論じています。
下記資料2所収のSF小説や、精神分析家が公刊した資料3などが、関連するテーマを扱った資料として紹介されています。

資料2
『輪廻の蛇』ロバート・A.ハインライン著, 矢野徹[ほか]訳 早川書房 2015.1 (ハヤカワ文庫 SF 1989) (S/933.7/ハ8/604 7105260213)
p.311-346が、資料1で引用されている小説「かれら」(福島正実訳)です。

資料3
『分裂病の少女の手記 心理療法による分裂病の回復過程』改訂版 セシュエー[著], 村上仁訳, 平野恵訳 みすず書房 1980 (4937/S542/B 1126892121)
資料1では1955年の版を引用していますが、都立図書館では1980年の改訂版を所蔵しています。

資料4、5、6
『他者の現象学 哲学と精神医学からのアプローチ』増補新版 新田義弘, 宇野昌人編 北斗出版 1992.10 (1349/164A/92 1125570132)
『他者の現象学 2 哲学と精神医学のあいだ』新田義弘編 北斗出版 1992.10 (1349/164/2 1125570123)
『他者の現象学 3 哲学と精神医学の臨界』河本英夫, 谷徹, 松尾正編 北斗出版 2004.2 (1349/164/3 5008461620)
他者の存在や他者理解をめぐる問題の考察を収めた研究論集です。論考によっては分裂病にも触れています。

資料7
『日本文学における<他者>』鶴田欣也編 新曜社 1994.11 (J040/3092/94 127581690)
p.276-323「鏡の沙漠 近代日本文学における<他者(エイリアン)>の構築」(スーザン・J・ネイピア著、田村義也ほか訳)

日本文学における他者の存在について、安部公房や夏目漱石、泉鏡花などの恐怖小説・幻想文学を取り上げて論じています。
精神病理の観点によるものではありませんが、類似するテーマを扱った小説にどのようなものがあるのかわかります。


また、下記資料8~10などの記録・手記類にも、”エイリアン”としての悩みを取り上げた本人や家族の体験記があります。
当館の蔵書検索では、「アスペルガー症候群-闘病記」「発達障害-闘病記」といった件名から検索できます。

資料8
『うちの火星人 5人全員発達障がいの家族を守るための“取扱説明書”』平岡禎之著 光文社 2014.4 (916.00/7681/2014 7103862409)

資料9
『アスペルガーですが、妻で母で社長です。 私が見つけた“人とうまくいく”30のルール』アズ直子著 大和出版 2011.5 (916.00/7350/2011 5020294210)
p.79-142「3 宇宙人(アスペルガー)でも生きやすくなる 30のルール」

資料10
『僕の妻はエイリアン 「高機能自閉症」との不思議な結婚生活』泉流星著 新潮社 2005.9 (916.00/6450/2005 5011734550)

以下の資料11は、都立図書館では所蔵していませんが、インターネット上で全文が閲覧できます。

資料11
雑誌『大阪大学教育学年報』6巻 (2001年3月) 大阪大学大学院人間科学研究科教育学系
p.279-288「"Capacity to Be Alone"に関する質的研究の試み : 小説『フランケンシュタイン』より」(野本美奈子)
(https://doi.org/10.18910/12895)
小説『フランケンシュタイン』を、「ひとりになる」ことを主題として読んだ論文です。分裂病についても言及しています(p.280)。

このほか、病気を患う当事者の話は、本人やその周囲の人々によって書かれた病気の体験記である「闘病記」に収録されていることがあり、参考になる情報が得られるかもしれません。
都立中央図書館の闘病記文庫ではさまざまな病気の闘病記を所蔵しており、たとえば、アスペルガー症候群、統合失調症、うつ病などの闘病記も所蔵しています。

闘病記のリストや取り扱っている病名の一覧は、都立図書館のホームページでご覧いただけます。
https://www.library.metro.tokyo.jp/search/research_guide/health_medical/index.html

(下線・太字Takeo)


上記資料のうち、8~10は発達障害に関する著作なので除外。
資料2、ハインラインのSF『輪廻の蛇』は地元の図書館に所蔵があったので、早速リクエストした。

以前にも書いたが、わたしが忘れられないのは、高校時代、友だちの家で読んだ、仲間のうち、ひとりだけ「本当に人間ではなかった」者を描いた永井豪の短編「くずれる」(1971年)。

しかしわたしがほんとうに知りたいことはいったい何だろう?
「自分が人間であると思えない」ということにしても、別に人間でなければならないわけではない。どういう形かはわからないが、仮にわたしが「人間」であると証明されたとして、一体何が変わるというのだろう?

自分自身がいよいよ行きづまりの段階に来ているということが、新しい年を迎えての切実な感想である。同時に、僕が僕自身の絶望的な状態に対して、まがりなりにもこのようなはっきりした認識を持ったということが、辛うじて救いでもある。
何かが変わらなければならぬ(そしてそれは一切が変わることなのだが)という感じが今ほど切実なことはない。
生活態度を改めるとか、酒をやめるとか、煙草をやめるとかいう問題ではない。自分自身が存在としてまったく破れ去っているいること、その破れのまっただなかから「僕を救ってください」という声を、全身をもって叫ぶこと。そのことを除いて、僕が存在し得る契機はもはやなにひとつのこっていない。
ー石原吉郎、1961年1月11日のノートより。

しかしわたしにとって「救われる」とは、どのような状態を言うのだろう?
 それはひとと繋がり合えることかもしれない。
「出会いとは接点をもったということだ。全貌との出会いなぞありえない。」
石原は1972年11月のノートにこう記している。
「接点」とは。なんということだ。人と人とが「一点」でしか結びつかないなんて。



「皆が自分と同じ人間であるという実感が持てない」という言葉。
それが哲学の論文でも、文学書の中でもなく、ごく普通の一人の青年の口から発せられたということは、感動的でさえある。
逆に言えば、何故普通の人々は、このような疑問を持つことがないのか・・・
つまりそれは、繰り返すが、たとえ精神科医であろうと「所詮は単なる健常者に過ぎない」という木村敏の言葉を裏付けてはいないか。
「正常であるとは、とりもなおさず凡庸さの謂いである」というヤスパースの言葉を。

わたしが「ひと」であり、「彼 / 彼女」もまた同じように「ひと」である場合、「われわれ」は決して通じ合うことはできないのかもしれない。



これは「全き抱擁」ではないのか?これこそがわたしの求めている「つながり」であり「通じ合うこと」ではないのか。

結局わたしの「抱擁」を、「つながり」を阻害しているのは、「価値観」というものではないのか?

二階堂奥歯は『八本脚の蝶』の中でこのようなことを書いている。
探しているのは社会に対する違和感ではなくて、世界に存在することへの違和感を持つ者とぬいぐるみの物語。世界に対する違和感を感じる主人公はより抽象的な存在だ。それは社会の中の一個人ではなく、世界があらわれでる場としての主体という性格を強く帯びている。従って主人公が変容するとき世界は変容し、私が崩壊するとき世界は崩壊するのだ。
そのような人物にとってぬいぐるみは極論すれば自我の崩壊と世界の崩壊をくいとめる者、世界守護者とさえ言えるのではないか。

ぬいぐるみへの愛というのもわからないことではない。
ただ、猫やぬいぐるみでは全身でギュッと抱き締める感覚が掴めない。



もう一度まとめてみよう。

● わたしは自分が「人間である」という感覚を持つことができない。

● その理由は、他の存在と同じ人間であるなら、彼らと通じ合えるはずではないのか?

● 一方で、わたしが「ひと」」で「彼 / 彼女」も同じく「ひと」であるなら、まさにそれゆえ「個性」「趣味」「価値観」の相違によって、決して相容れることはないのではないか?

●「あなた」は「わたし」ではない。ではどのようにしてその「相違」を超えて通じ合えるのか?

● わたしが「ひと」で、相手が人間以外の「抱き締めることのできる大きさのある動物」或いは「ぬいぐるみ」であれば、わたしの望む「全き抱擁」が可能ではないか。

● 通じ合いたい(抱き締め合いたい)対象は「人間」(或いは命を持つもの=動物)に限られるのか?


         何がなしに
         頭のなかに崖ありて
         日毎に土のくづるるごとし (啄木)










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