2019年1月23日

絵を描く


デイケアのプログラムのひとつとして、絵を描く時間がある。
わたしはこれまで、体験参加として2回、そして正式な利用者となってからは、前回の「恋愛について」と、過去3回プログラムに参加したが、3回ともディスカッション形式のもので、そういう場合には、中学校の教室二つ分くらいの広さのメインルームの隣にある、その半分くらいの部屋に行ってディスカッションの参加メンバーだけで行われる。

今回の「絵画」は、大部屋で、銘々好きな場所に座って絵を描いた。
絵を描く人ばかりではない。居眠りをしている人もいれば、向かいのテーブルではポーカーをやっていた。「え、でもなになにさんオケラじゃん」という声が聞こえたような気がしたが気のせいか(笑)

絵を描くといっても、絵画療法、芸術療法といった大げさなものではなく、
みんなで自由に好きな絵を描いたり、塗り絵をしたりといった時間だった。

しかしわたしは、「たのしんでいますか?」という感じではなく、今の自分の内面をどのように絵として表現できるのかと真剣に思案していた。

流石に油絵を描く画材はないので、新聞大の画用紙を更にふたつに折って、先日夢で見た光景を描いた。

夢でチラと見た光景には色がなかったので、木炭を使った。

画面の左上に、煤けて真っ黒な子供のような人が四つん這いになっている。
たった今煙突から出てきたように真っ黒で、顔貌(かおかたち)もはっきり見えない。ただ、髪の毛だけが針金のように逆立っている。右上には、やはり輪郭も曖昧な人物がいて、うずくまる子供(?)に鞭をふるっている。彼が何者で、どういう理由で、黒い人物を鞭打っているのかはわからない。
そして、画面の中央には大きな渦巻きがある。これは「混沌」を表している。

白い画面にこれだけを描くと逆三角形になって、不安定な構図になるのだが、むりになにかを描き加える必要もないと思った。絵の技法の未熟さももちろんだが、不安定さ、バランスの悪さこそ、今のわたしの内面を表しているともいえるのだから。

ではこの、髪の毛を逆立てて、鞭打たれている黒い小さな人物は誰だろう?
これはおそらくわたしなのだ。「鞭打たれる」というのは、虐待の記憶でも、いじめのトラウマでもない。わたしにとって「生きていること」即ち「鞭打たれること」なのだ。
では誰に?彼の後ろで鞭を振り上げている人物は、特定の誰某ではない。強いて言うなら「人間」だろうか。「何故人が人に鞭を揮うのか?」という問いは愚問だ。「人だから人に鞭を揮う」のだ。
わたしは「鞭打たれる者」であって、決して「抱擁される者」にはなれない。
それは何故か?他ならぬわたしであるから・・・それ以外の答えをわたしは知らない。



わたしは昨夜自分の内面にある様々な感情を列挙した。

「破壊」「暴力」「炎上」「滅亡」「敵対」「殺戮」「鬱屈」「孤独 孤立」「無援」「空虚」「不安」「怒り」「憎悪」「怨恨」そして「無」・・・と。

何ひとつ生を肯定するものが無い。

無いのだ。どこをどう探しても、「希望」とか「夢」「未来」「友情」「愛」「温もり」「愉しみ」「よろこび」「明日」「幸福」・・・そのような言葉はまるで見当たらない。

また現実にそれらを持てる自分ではないということもよく知っている。

不貞腐れているのではない。上に並べたような言葉がどこか面映ゆく、なにやら鼻白んでしまうのだ。

馬子にも衣裳などと言うけれど、とてもじゃないが似合わない。

では、一筋の光もない場所で、「鞭打たれる者」として、どうして生きていられるのか?


わからない・・・







2 件のコメント:

  1. 酒に酔うと・・・

    BELLE AND SEBASTIANをよく聴きます。

    Nicoさんが取り上げていた曲です。

    Nicoさんは今でもこの曲が好きですか?

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    1. へえ、ベルセバを聴いているんですか。酒に合いますか?
      今でも好きですよ。あまり聴いていませんけど。

      yy8さんの趣味はアムロ以外は知りませんが、また曲を紹介しますね^^

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