2019年1月19日

通じ合うとはどういうことか?


わたしは日頃から誰とも、文字通り誰とも気持ちが通じ合うことができないと感じている。
わたしが実感することのできない、気持ちが通い合う、または話が通じるとは、いったいどういう状態なのだろう?

傾聴ボランティアという人たちがいる。話し手の言葉に黙って耳を傾ける。
途中わからない部分があればみじかく質問することはあるだろう、けれども基本的には「聴く人」「耳を傾ける人」たちだ。

ひとりぼっちの子供が、ぬいぐるみや人形に向かって話し掛けている。
時々彼 / 彼女自身がぬいぐるみや人形になって「会話」をしたりする。
これもやはり、ぬいぐるみや人形は自分の意見を述べないし、反論もしない。

教会で神に向かって祈る。一心に語りかける。神は答えない。ただ彼や彼女の言葉に身を委ねている。

「聴く人」「ぬいぐるみや人形」或いは「神」に話しかけるとき、人はこれらを通して己自身と対話している。あるいは己の心の声をその耳に聴いているのだろう。話相手は他ならない自分自身だ。

聴く「わたし」は、100%語る「わたし」と同一ではない。けれども、他者よりははるかに「わたし」に近い存在であるには違いない。

では「他者」は? ── それが親であっても、兄弟姉妹であっても、恋人・伴侶であっても、「完全にわたしではない」者と、話が、気持ちが通じるとはどういうことだろう?

それはわたしの話しを聴く「彼 / 彼女」が、100%わたしに同意してくれることを意味するのだろうか?

「傾聴者」でも「ぼくのぬいぐるみ」でも、また「神たる者」でもない、一個の「全き他者」と、「気持ちが」「心が」「通い合う」ということが、そもそも可能な事なのだろうか?

しかし人は・・・わたしは、「他者」とのこころの交流を望んでいる。そしてその「他者」とは即ち「わたしではない者」・・・

何故わたしは、自己との対話だけでは充たされないのだろう?

「自分とは違う者」と、わかりあう、通じ合う。
それは「自己ならざる者」に「自己(わたし)」であることを望むことではないのか。

精神的存在としても、身体的存在としても、「わたし」から(と)分離されている「他者」との一体感・・・否、一体化を希求するという、絶対に不可能な欲求がわたしの中にあるのか・・・


【抱擁】
HUG

Polar Bear's Mother and Child, Jackie Morris



 Jackie Morris's Drawing 






2 件のコメント:

  1. 私には心が通じ合う、といえる人に十年ほど前に出会いました。今の職場の人だから、今でもその人に会います。でも会話としては挨拶をするぐらいで、付き合いはありません。
    なぜかと云えばその人は普通の主婦だからです。

    出会った時から、昔から知った人という感じで、他人という感じは持ちませんでした。
    そして相手もそう感じているという確信がありました。

    すでに気持ちの上で相手を理解しているので、言葉はいらないのです。
    兄弟の様な感じでしょうか。血が繋がっている様な感じですね。

    恋とはちがう感覚です。

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    1. こんばんは、yy8さん。

      10年間同じ仕事が続けられるなんてすごいですね。わたしは最長で2年半(?)かな。

      なるほど、お互いがそこに居るだけで通じ合うということですね。
      そういうこともあるでしょうね。ロマンチックですね。

      わたしはやはり何らかの接触を求めてしまいます。
      わたしは「恋」を求めているのか?
      「ハイ」とも「イイエ」とも言えません。

      最近特に感じているのは、わたしにとって当たり前のことなんてなにも(或いはほとんど)ない、ということです。

      なんで自分が存在しているのか?まずその土台から考えないと・・・

      コメントをありがとうございます。

      よい日曜日を。

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