「教養とは、人間がすべてを忘れ去った時にまだそこに残っているものである」
というエドワール・エリヨの言葉がある。難解な定義で、正直言って意味がよくわからない。
こう言うことはできるだろうか、
「すべてを忘れ去り、すべてを喪った時に、まだそこに残っているもの、それが人間の尊厳である」と。
◇
ムッシュー・エリヨの言葉をまだ幼い娘たちにおしえたなだいなだ氏は続けて曰く、
「身につけるものは、教養ではなく、虚栄だ」
そしてまた曰く、
「愛というものは、そもそも、何々であるから、という理由があって生れるものではない。
何々であるにもかかわらず、という、運命的な生れ方をするのだ。
相手が、すでに結婚した奥さんであるにもかかわらず愛する。愛は、それ故、打算を越えたものになるのだし、ただ、惜しみなく奪って行く。」
「パパは女性に、たったひとつのことしかのぞまない。それは人間味というものだ。不完全さ、それが、人間味をつくる。パパもそうであるように、男というものは馬鹿で、女性に人間味さえあれば、簡単に愛してしまう。そうであるから、今まで、人類は滅びないですんできた。」
『なだいなだ全集第九巻』「片目の哲学」第四章「女性についてー美徳のかたまり」
(1967年)より
(1967年)より
「すべてを忘れ去った時に、まだそこに残っているもの、それが教養である」
「キョウヨウ」なんて尤もらしい言葉を使わずに、また、「尊厳」なんていかめしい言葉を使わずに、
「すべてを忘れ去った時、そしてすべてを喪った時に、まだそこに残っているもの、それが人間味である」といいたい。
言うまでもなく馬鹿なわたしは、男性・女性を問わず「教養」よりも「おろかしい」そして「(ちょっと)おかしい」人間味を愛する。
言うまでもなく馬鹿なわたしは、男性・女性を問わず「教養」よりも「おろかしい」そして「(ちょっと)おかしい」人間味を愛する。
Blueさん、こんばんは。
返信削除今日、電子新聞としてわたしのスマホに届いたこの記事に興味を持ちました。
https://president.jp/articles/-/27147#cxrecs_s
わたしはこの人に賛同する者でもないし、反対する者でもないのですが、ただ面白いなあと思って記事を読みました。
>「すべてを忘れ去り、すべてを喪った時に、まだそこに残っているもの、それが人間の尊厳である」と。
:わたしはすべてを忘れ去るという能力は持ってゐませんが、家庭・夫・娘息子を失いました。
【依存する対象】が皆無になっても、それでもわたしは生きてゐる、という自尊心・自己肯定感のようなものが、人間の尊厳なのではないかと、ときどき思います。ロビンソンクルーソーが無人島に漂着し、毎日毎日、聖書を読み、毎日毎日、日記を付けて、(物質的には)ひとりで生き抜いたのと似てゐるやうな気がします。
>不完全さ、それが、人間味をつくる。
:完全に同意します。
凸凹具合がちがう、それがおもしろくて、わたしは人と関わっているのだと思います。
>「(ちょっと)おかしい」人間味を愛する。
:自分から見れば他人は「おかしいところ」だらけだし、他人から見ればわたしは「おかしいところ」だらけです。それはおもしろいです。
こんばんは、瀬里香さん。
削除なるほど、教養についての記事のようですね。
わたしは教養とは自分の考えを相対化できる能力だと思います。自分にとっては絶対的な真理であっても、お隣にはそれはまったく真理ではない、というごく当たり前のことを弁えること。
まぁ難しいですね。
ただ、最後に書かれている
>他方、学生でもないのに、いまだに天皇制に絶対的に反対している人たちもたくさんいるけど、そういう人たちは、頭でっかちの学生のまま大人になってしまった人か、人生経験が乏しい人なんだろう。まさに三角関数絶対必要派みたいに、多数の国民のこと、実社会のことをよく知らない人たちなんだろうね。
という口調はいかにも傲慢な人間の言いそうなことだと思います(苦笑)
つまり天皇制に反対する(わたしのような)人間は、愚か者であると決めつけて憚らない。
◇
「すべてを忘れ去る」というのがどういう意味で言われているのかよくわかりません。けれども、たとえば、学校で習ったこと、本で読んだことをみんな忘れてしまっても・・・という意味なら、わたしも同感です。わたしにとってはとても難解な箴言です。
>【依存する対象】が皆無になっても、それでもわたしは生きてゐる、という自尊心・自己肯定感のようなものが、人間の尊厳なのではないか
そうでしょうね。だからといって、「依存して生きている人間には尊厳はないか」というシンメトリーにはならないでしょうけれど。(わたしには「尊厳」なんてありませんけど(苦笑)
わたしはこの凸凹が気になってしょうがないようです。なんとかキチッと合わせたい。それが「気持ちが通じている」ことなんじゃないか、と。いえ、そんな風に感じているだけですが・・・
>:自分から見れば他人は「おかしいところ」だらけだし、他人から見ればわたしは「おかしいところ」だらけです。それはおもしろいです。
向うでも書いたけど、わたしはどうしても「自分がおかしい」と考えてしまいます。
相手はまともでこちらがおかしいのだと。
瀬里香さんの「キレ」は10年前に「こころという海」で話し合っていた頃と変わっていないようでうれしく思います。
追伸
返信削除ここで昔のように話し合えることをうれしく思っています。
よい週末を。