2019年1月2日

『異常の構造』木村敏 ー 永遠のアポリア…


自分が読んで感銘を受けたとか、いろいろと考えさせられた本を、人にも読んでもらいたいと思う気持ちはわたしにもある。
本を薦めるということは、言い換えれば「自分はこういう本を読んで感銘を受け、刺激を受ける人間である」ということを相手に伝えたいということなのだろう。
単純に「いい本だから」とか、「おもしろいから」ということではなく、やはり、他ならぬ、「この本を読んだわたし」を知ってもらいたいのだ。

とは言え、わたし自身は何事によらず、人から薦められるということが苦手な人間だ。
であるから「己の欲せざることを人に施すことなかれ」という黄金律に従って、本でもCDでもビデオでも、人に薦めることはしない。



「異常」と「正常」または「狂気」と「正気」ということをほとんど常に考えている。
木村敏の『異常の構造』講談社現代新書(1973年)は、精神病理学者である筆者が、主に「統合失調症」(本書では「分裂病」)というものを通じて、人間に於ける「正常」と「異常」とは如何なるものかを、医学的・科学的というよりも、例によって、哲学的なアプローチで考察した充実した内容の一冊である。

以下、本書から、「統合失調症」を媒介とした木村敏の人間観が記されていると思われる部分を引用する。





彼らが場違いに繊細な感受能力を持って生まれてきたという運命が、すでにその時点において彼を分裂病者として規定していたのかもしれないのである。私はふつうにいわれている意味での「分裂病性の遺伝」や「分裂病性の素質」は信じたくない。そこにはつねに、なんらかのネガティヴな評価が、つまり「先天的劣等性」のような見方が含まれているからである。私はむしろ、分裂病者はもともと人一倍すぐれた共感能力の所有者であり、そのために知的で合理的な操作による偽自己の確立に失敗して分裂病に陥ることになったのだと考えている。そのようなポジティヴな意味での「素質」ならば十分に考えられることだろう。」


「病気」の概念は「健康」の対概念として、「常態からの逸脱」を意味している。ところが分裂病者の場合、彼の「常態」とはいったいなにをさしていわれることなのだろうか。
 (略)
分裂病者はまさに分裂病者であること以外に彼の「常態」をもたないのではあるまいか。
 (略)
つまり分裂病を「病気」とみなす見方のうちには、暗黙の裡に、さきに述べた「多数者」と「常態」との読みかえがおこなわれ、「異常」から「病気」への意味変更が行われているのである。」


「・・・この「不幸」とか「気の毒」とかいう発想自体が、結局は私たちの常識的日常性の立場から、つまり正常者であることを好ましいとし、異常であることを好ましくないとする立場から出てくる発想であることに変わりはない。
しかしだからといって私たちはどうやって常識的日常性の立場を捨てることができるのか。それはおそらく、私たち自身が分裂病者となることによる以外、不可能なことだろう。私たちは自分が「正常人」であるかぎり、つまり1=1を自明の公理とみなさざるをえないでいるかぎり、真に分裂病者を理解し、分裂病者の立場に立ってものを考えることができないのではないか。そして私たちが分裂病者を心の底から理解しえたときには、もはやその「治療」などということは問題にならないのではないだろうか。

アメリカの革新的な精神分析家のトマス・サスは、ふつうの病気がテレビ受像機の故障に譬えられるならば、精神病は好ましからざるテレビ番組に譬えられ、ふつうの治療が受像機の修理に相当するとすれば、精神病の精神療法は番組の検閲と修正に相当するといっている。しかし分裂病を「好ましくない」と判断し、これに「検閲と修正」を加える権威を単にその都度の体制的な社会規範やその都度の社会の常識的日常性にのみ求めるのでは、この譬えはまったく陳腐なつまらないものになってしまう。規範が変わり、常識が変わっても、そこにはつねに変わらず、規範や常識側に立つ大多数の「正常者」と、これから外れた少数の「異常者」との間の緊張は残るだろう。この緊張の真の原因は、いかなる種類のものであれ、そのような社会規範と常識が必然的に生み出される源であるところの、個人と社会との生命的次元における矛盾的統一の裡にある。私たちが分裂病者を「気の毒」と感じてこれを「治療」しようとするのも、逆に私たちが「正常性」の虚構を見抜いて「治療」を偽善とみなすのも、すべてこの生命的次元における矛盾的統一に由来するものなのである。

分裂病を「病気」とみなし、これを「治療」しようという発想は、私たちが常識的日常性一般の立場に立つことによってのみ可能となるような発想である。そして私たちは、自らの個体としての生存を肯定し、これを保持しようとする意志を有している限り、しょせんは常識的日常性の立場を捨てることができない。私たちにできるのはたかだかのところ、この常識的日常性の立場が、生への執着という「原罪」から由来する虚構であって、分裂病という精神の異常を「治療」しようとする私たちの努力は、私たち「正常者」の側の自分勝手な論理にもとづいているということを、冷静に見極めておくくらいのことに過ぎないだろう。」


「私たちが西欧諸国から受け継いできた従来の精神医学がその根底において間違っているということ、このことだけは最初から確かなことのように思われた。しかし、これに対する闘争として出現した反精神医学の主張も、最初受けた印象ほどには単純に納得しにくいものであることも、次第に明らかとなってきた。つまり、反精神医学がその特徴としている常識解体をどこまでも首尾一貫して押し進めれば、それは必然的に社会的存在としての人間の解体というところまで到達せざるをえず、したがってまた、個人的生存の意志という、生物体に固有の欲求の否定に到達せざるを得ないはずだからである。反精神医学は、自己自身を徹底的に追求すれば、究極的には反生命の立場に落ち着くよりほかはない。
 (略)
かつてクルト・コレは、精神分裂病を「デルフォイの神託」に譬えた。私にとっても、分裂病は人間の智慧をもってしては永久に解くことのできぬ謎であるような気がする。分裂病とはなにかを問うことは、私たちがなぜ生きているのかを問うことに帰着するのだと思う。私たちが生を生として肯定する立場を捨てることが出来ない以上、私たちは分裂病という事態を「異常」で悲しむべきことだとみなす「正常人」の立場をも捨てられないのではないだろうか。
私は本書を、私が精神科医となって十七年余の間に私と親しくつきあってくれた多数の精神病患者たちへの、私の友情のしるしとして書いた。そこには、私がしょせん「正常人」でしかありえなかったことに対する罪ほろぼしの意味も含まれている。
(下線・太字Takeo)





本書が書かれてから、既に45年を閲して、分裂病は統合失調症と呼称を換え、薬物による症状の改善も目覚ましく進歩した。しかしこの木村敏の著作は、日進月歩の医学の世界で、統合失調症をまだ分裂病と呼んでいた頃の古臭い精神医学の本ではなく、
そもそも心を病むとはどういうことか、「健常」「正常」であるとは、また「異常」であるとはどういうことかという、根源的な問題の考察の領域に達している。

今なお古びない良質な「哲学書」として、また木村敏の標榜する「人間学」のテキストとして、「正常」と「異常」、そして「社会」と「個人」の相互関係に興味のある方に一読をお薦めしたい。


ー追記ー

わたしは木村氏の主張に全面的に賛同しているわけではない。
例えば、

「私たちが生を生として肯定する立場を捨てることが出来ない以上、私たちは分裂病という事態を「異常」で悲しむべきことだとみなす「正常人」の立場をも捨てられないのではないだろうか。」

或いは

「反精神医学がその特徴としている常識解体をどこまでも首尾一貫して押し進めれば、それは必然的に社会的存在としての人間の解体というところまで到達せざるをえず、したがってまた、個人的生存の意志という、生物体に固有の欲求の否定に到達せざるを得ないはずだからである。」

このような意見は、「人が個として生きること」と「その者の社会性」との関係について、それがどのようなものであるのかはよくわからないが、「社会」があって初めて人は生きてゆくことができるという見方のように思われて、社会、常識から離れた一個人として、「彼ら」を見ることが何故難しいのかという疑問に突き当たる。

嘗て母は、わたしが主治医に宛てた手紙を読んで、「これは「手紙」というよりも「問答」だね。」と言った。そして本書の解説には木村氏は自分の思想に西田哲学と道元の禅を採り入れていると書かれている。
「~ではなかろうか?」「~なのではないか?」「~だろう」
そのような語り口が、わたしがこの書を好む大きな要素であるのかもしれない。















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