明日(火曜日)はデイケアで、「絵画」のプログラムがある。参加してみようと思っている。わたしは絵を観るのが好きだが、自分で描くこともなければ、描いてみようかと考えたこともない。
だから、絵を描くのは、中学校以来だろうか。
では何故観る専門のわたしが、絵を描くプログラムに参加しようと思ったのか。
フェイスブックに籍があったころ、アール・ブリュット(アウトサイダー・アート
=知的な障害や精神障害を持った人の描く絵)についてのウェブ上での記事をたまたま目にして、その内容に反撥を覚えたことがあった。その記事にどんなことが書かれていたのか、またわたしがそれに対してどのような反論をしたのか憶えていないが、いずれにしても普通の人間が見ることのできない世界を描いた絵に強く惹かれる。更に言えば、殆どの人間は、木村敏の言うように、所詮は単なる健常者でしかないのだという思いがある。
こう言う言い方が適切かどうかわからないが、知的・精神的な障害を持った人の内面は、健常者と呼ばれる人たちよりも遥かに広く、また深いのだろうという畏怖と好奇心がある。
急いで付け加えるが、そのような障害者には、健常者にはない「特別な才能が」ある、という話をするつもりは毛頭ない。絵を描ける障害者が、描けない(描かない)者よりも「優れている」ということは決してない。
わたしは絵画療法というものに全く無知だが、こころの病を持つ者が絵を描くということは、彼の内面に伏在しながらも、未だ言葉として抽象化されていない生(き)の感情を表出するということに主眼があるのではないだろうか?
言語化というものが、「混沌」に目鼻を穿つことなら、絵を描くということは、混沌を混沌のまま写し出してみるということだろうか?
わたしの内面には、「破壊」「暴力」「炎上」「滅亡」「敵対」「殺戮」さらに「鬱屈」「孤独 孤立」「無援」「空虚」「不安」「怒り」「憎悪」「怨恨」そして「無」・・・といった感情が密かに身を潜めて蠢いていて、いつ外部に飛び出すかという機会を窺っているように感じている。
日頃わたしの好むドイツ・ロマン派やラファエル前派のような、「静謐」で「美しい」絵ではなく、自分が描くなら、ナチスに頽廃芸術と排斥されたドイツの表現主義や、抽象表現主義のような歪んだ、いびつな絵を描きたい。つまり一言でいえば醜い絵を描きたい。
わたしの内面を絵画表現にした場合、一番近いと思われるのは、丸木位里・俊夫妻の描いた「阿鼻叫喚」の図だろうか。しかしそれは平和への祈念、決して繰り返してはいけない愚行・悲劇への想い、という描き手の意図とは遠く隔たり、寧ろ、全き滅びへの希求とでもいうべきものかもしれない。
わたしは平和を願っていないのか?わからない。仮に平和というものが、際限のない文明化であり「文化なき文明化」の意味であるとしたら、また機械と人間の文字通りの一体化への途であるとしたら、わたしは「平和」よりも寧ろ「滅亡」を望む ── いや・・・最近は人類が一瞬にして消滅滅亡するというよりも・・・いや、よそう。最早わたしは「人類」とは縁もゆかりもない存在に近づきつつあるのだから・・・
ところで、先日Q&Aサイトでチラと話題に出たが、わたしは「恨(ハン)」という朝鮮民族特有の(?)情念に関心がある。もう20年も前だろうか、韓国映画『風の丘を越えて』ー『西施行』という映画で知った言葉だが、わたしは基本的にインターネットでの「検索」を嫌うので、「恨(ハン)」という概念についての詳細はわからない。
ただ、「恨」というある種の負の情念が創造のエネルギーに転化することに関心を持つ。
いや、「創造」に限らず、「破壊」への巨大な力にもなり得るというところに魅せられる。
日本人はおそらくこのような持続的なエネルギーを持ちえない。
ー追記ー
(見た目の)醜さの中に、美も眞實も隠されているというのはその通りだろう。
今日は楽しめましたか。
返信削除こんばんは、瀬里香さん。
削除スタッフによれば、「絵画療法」なんて大層なものじゃなく、皆で好きな絵を描いたり、塗り絵をしたりして楽しむ時間だそうです。
わたしは結構真剣にやりましたが、技能が追いつきませんでした。
たのしいという感じではありませんが、また次回も参加したいと思いました。
瀬里香さんは如何ですか?
気軽にしゃべりに来てください。
どうもありがとう^^
得意な(あるひは好きな)表現方法があるというのは実に喜ばしいことです。わたしの場合、表現方法が「分からない」か「貧しすぎる」か「不器用すぎる」ので、かんばしくない方向にそれは表出されます。
返信削除「摂食障害や鬱病などの発作はあなたにとって大切な表現方法ですから大切にしてください。」とDr.に云われてゐます。精神障害の発作は苦しいんですけどね。わたしがバランスを取って生きる上で、必要なものなのでしょうね。
最近は文章も上手く書けなくなり、ブログも閉鎖しっ放しですが、わたしは身体を動かすという表現方法が好きなので、毎朝毎夕自転車に乗って走り、たまに市営GYMのスタジオでダンスのレッスンを受けたりしています。それだけなのですが、身体表現をするとβエンドルフィン(?)やセロトニン(?)を浴びてゐるような、幸せな気持ちになれます。
わたしは書くことは結構好きですね。だから、このブログも、読者がほとんどいませんが、それはあまり気になりません。表現の仕方に自分が納得できるかどうかの方が重要です。
削除発作自体が表現方法というのはいま一つよくわかりません。
発作を生み出している「何か」が一方では発作という身体の現象となって、また同時に、絵や文章などの表現の源泉になる、というのならわかりますが・・・
わたしは瀬里香さんを文章を通してしか知りませんが、文章の表現力は変わらないと感じています。何よりも文章は感情で、心で描くものだと思っていますので、悲しみなり絶望なり、空虚なり、何らかの感情がそこにあれば、それに応じた言葉というのは生まれてくるのではないでしょうか?
確かに、傍目にはわからなくても、「上手く書けなくなった」と感じることはありますけどね。
いいですね。外の世界を愉しむことができて。
わたしが出来ない分も、風を浴び、草のざわめきを感じ、陽に照らされて、幸福感、高揚感を感じてください。
自分にとっての(偽物ではなく)事実として描かれる絵は、最高の表現方法だと思ひます。その絵は、躍動感があるのかもしれないし静寂だけが充満しているのかもしれないし、怒りに悲しみに淋しさに絶望感に満ちてゐるのかもしれないし、何にも満たされてゐないのかもしれないし、満ち足りていると【余白】が多くなるのかもしれないし、いやわたしは美術のことはよく分からないのだけど、正直に描くほど素敵な作品になると思ひます。
返信削除書くにしても描くにしても、わたしはいつでもよくもわるくも「わたし」以外にはなれません(苦笑)
削除次回はコラージュをやってみようと思っています。
文章と同じく、「上手い絵」を描きたいとは思わないんです。
ただ、今自分が感じている「寄る辺のなさ」を絵で表現することの難しさを感じています。
まだまだ心の内側の半分も画面に表すことができません。
他の人たちは、塗り絵などをやっていました。^^
「てん」という絵本があります。ぼくの好きな物語です。
これももう20年近く前に新聞の絵本紹介で知った本です。
いつか機会があったら、図書館などで読んでみてください。
(てんは「点」の意味です)
「てん」という絵本、図書館で探してみます。
返信削除図書館にはよく行くから。
「線」や「面」ではなく、「点」というところが興味深いです。
そうですか。図書館はやはりママチャリでいくのですね。あ、もうママチャリじゃなくマウンテンバイク(?)でしたっけ?
削除そちらではどうかわかりませんが、都内では、地元にない本のほとんどは所蔵している他の自治体から相互貸借(協力貸し出し)という形で借りることができます。
見つけられるといいですね^^
Nicoさん、こんばんは。
返信削除今日はどんな絵を描いたのですか。
観たいですね。
こんばんは、yy8さん。
削除それについてはブログで書きます。
といって、お見せすることはできませんが。
いずれそれなりに満足のいく絵が描けて、またデイケアで話相手ができたら、写真を撮ってもらってアップすることもあるかもしれません、え?スマホで(爆)
こんばんは, Takeo さん.
返信削除デイケアでの絵画のプログラム, 楽しめたでしょうか?
絵は中学校以来と書かれていますが, 描いたことが無くても Takeo さんがブログに載せている絵には惹かれます.
印象に残る絵ばかりです. きっと絵に対する繊細な感覚をお持ちなのでしょうね.
どうして人は絵を描くのか, 不思議で仕方がありません.
どんな人でもどんな時でも絵は描けます. 学んだことが無くても, 道具が無くても, 頭の中の想像の世界にさえも描けます. だからでしょうか?
人に見せるため, というのは多分後になってから出てきた理由の一つだと思います. お金のため, というのはおそらくもっとそうです.
描くのが楽しいから?
よくわかりません.
> 日頃わたしの好むドイツ・ロマン派やラファエル前派のような、「静謐」で「美しい」絵ではなく、自分が描くなら、ナチスに頽廃芸術と排斥されたドイツの表現主義や、抽象表現主義のような歪んだ、いびつな絵を描きたい。つまり一言でいえば醜い絵を描きたい。
私はドイツ表現主義や抽象表現主義の画家を詳しく知っているわけではありません. ですが, 頽廃芸術とされた画家の一人であるオットー・グリーベル (Otto Griebel) というドイツの画家が好きです. と言っても一作しか知らないのですが.
坂崎乙郎さんの『絵とは何か』という本の中で, グリーベルの《日曜日の午後》という鉛筆画の写真が載っていて強く惹き付けられたのです. この絵の実物を観たことはありません. 坂崎さんの本でしか観ていません.
これは, 傷痍軍人が部屋で寛いでいる様子を描いたらしい絵で, 彼はおそらく失明していて義足です. 部屋が半地下で狭く, 彼の生活は困窮しているのかも知れない.
この絵の読み方, 感じ方は人それぞれだと思いますが, 私はこの絵を (坂崎さんの本をめくって, ですが) 観る度に幸福になります. この絵は私にとって必要な絵なのです.
《日曜日の午後》の中に「美と眞實」があるのか, あるいはグリーベルの世間での評価がどうなのかも私は知りません.
ただグリーベルのこの一枚の絵は私のところまで届きました.
こんなところに絵の力というか本質があるような気もするのですが, 考え続けてみます.
私ももう少し元気になったら, また作業療法のアトリエに通って仲間の中で絵を描きたいと思っています.
ごめんなさい. 名前を記入するのを忘れました. 上のコメントを書きました.
削除こんばんは、底彦さん。
削除みなさん、別にブロガーのアカウントを取得しなくても、コメントはできますよ。
と言って、わたし自身もこのBloggerは、他のブログで長いのですが、未だによくわからない部分がありますが・・・
わたしは底彦さんがどのような絵を描き、どのような絵を好むかを知りません。
ただ、ブログのプロフィールに載せられている絵を観て、抽象画を描かれるんだなと、勝手に想像しています。
わたしがブログに載せる絵は、どちらかというと大人しい優等生的な絵が多いと思います。以前ここでも書きましたが、もっとグロテスクな絵にも惹かれます。
ラファエル前派やペトルス・ヴァン・シェンデル、ジョン・アトキンソン・グリムショウ辺りを超えられないところが、わたしの、あるいは日本人であるわたしの限界かな、などと思うこともしばしばです。
わたしは絵でも写真でも海外のサイトで見つけることがほとんどですので、画家の名前も、タイトルも知らない場合が専らです。
オットー・グリーベル、今、イメージ・グーグルで見てみましたが、年代的に遅れてきた表現主義という感じですね。
底彦さんの「日曜日の午後」の説明を聞いて、すぐにジョージ(ゲオルグ)・グロス-George Groszを連想しました。
底彦さんが、「日曜の午後」という絵を観て、幸福な気持ちになる、という言葉を聴いて半分わかるような、半分わからないといった感じが正直な感想です。
「そんな暗い絵を見て幸福になるなんて」という意味ではありません。
わたしも絵を観たわけではありませんが、底彦さんの説明を聴いているだけで、「ああ、わたし好みの絵だな」と感じました。
この話を聞いて、(当たり前のことですが、)わたしはまだ底彦さんの半分も理解していないなと感じました。盲目義足の傷痍軍人の絵を観て「幸福」という言葉を使う底彦さんに、また一段深いところを見た気がします。
わたしは以前にも書いたように、シャイム・スーチンとルードヴィッヒ・マイトナーの絵が好きです。
>どうして人は絵を描くのか, 不思議で仕方がありません.
難しいですね。わたしの場合は何故書くのか?ですね。
人は誰でも自己の内面を何らかの形にしたいという衝動があるのかもしれません。
わたしをわたしであらしめているのは、「人としての身体」以上に、個別性を持った感情、想い、思考です。それがその人の「実存」であるとすれば、己を解き放ちたい・・・それが詩であるか、絵であるか、散文であるか、または踊りであるかはそれぞれでしょうが、その欲求は、「承認欲求」などという他者の眼差し以前に、自己確認の行為であるのかもしれませんね。
とまあ無理に理屈を付けなくても、Let The Mystery Be でいいと思います。
それから「この不思議な世界」にくださった底彦さんの返信を読みました。
わたしなりに考えをまとめていますので、お返事は今しばらくお待ちください。
もちろんあちらの返事を待たなくても別のところへのコメントはお気軽になさって下さい。
ありがとうございました。^^