「哲学は怖い学問ですか?」
昨年暮れ、2007~8年頃に出入りしていたQ&Aサイトの「哲学」カテゴリーの当時の投稿を眺めていたら、上のような質問が目に入った。その時には質問の内容も読まずにただ苦笑して通り過ぎていたが、何故か今頃になって、この質問は決して笑い事ではないと感じている。
「高等数学は怖い学問ですか?」「ラテン語は怖い学問ですか?」と尋ねる人はいないだろう?あるとすれば「宗教学」「神学」だろうか?
いずれにしても、「正解のない学問」「答えを得ることよりも思惟することが主である学問」という点で、「哲学」は他と一線を画している。
哲学を単純に「考えること」とすると、確かに「考えずに生きる」方が楽に決まっている。
「これはAです」と差し出されたものを疑うことなく「A」として受け取ればいいだけのこと。ところが「これはほんとうにAだろうか?」とか「Aであるとしたらその根拠は何だろう?」などと考え出すと、途端にこれまでスムースにできていた歩行が困難になる。
けれども、考えることは、社会の中で生活をする人間にとって、ある種の義務でもある。
松山巖の書評集『本を読む。』(2018年)に黒井千次の『自画像との対話』(1993年)についての論評がある。
最終章の『ドラマとしての自画像』で、スターリンの粛清で追われ、収容所に入れられた人々の絵のエピソードを語っている。鉛筆による人物像が大半だが、自画像はない。鏡が排除されたためである。ここから著者は自画像のいま一つの意味を見出す。
「自画像とは危険な絵画なのである。……自己を外界に向けて曝そうとするためである。と同時に、描く本人をもまた、危険な人間とせずにはおくまい。おそらく自己を深く掘る人は、他人をも掘り、外界をも掘削する。」
この種の人間は権力にとり危険である。
「権力にとり危険である」しかしそれ以前に、自己を深く深く掘り下げる者は、遂には自らの足を乗せている地面さえ掘り崩してしまうだろう。
ゴッホは何故あれだけ多くの自画像を残したのか?
ニーチェの著作のほとんどは自己の鏡像ではなかったか?
ふとそんなことを思う・・・
「哲学は怖い学問ですか?」
笑い事ではない。
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