「常識的日常性の世界とは、私たちのだれもがふつう特別な反省なしにその中に住みつき、その中で生活を送り、その中でものを見たり考えたりしている世界である。この世界は私たちにとってあまりにも身近な世界、あまりにも自明な世界であり、いわば私たち自身の存在、私たち自身が「ある」ということがそれと一つのこととして同化しきってしまっている世界であって、私たちはこれを対象化して認識したり、いわんやそれの構造を問題にしたりすることには慣れていない。
したがって、私たちが常識的日常性の自明さに安住し、その論理構造を唯一の絶対的妥当性をもつものとして容認しているかぎり、常識の構造を問うという私たちの課題はおそらく永久に達成できないだろう。この課題を達成しうるためには、私たちはどうしても常識的日常性を相対化し、それの絶対的妥当性から自由になって、それをいくつかのありうべき可能性のうちの一つの特殊例に過ぎないものとして把えなおさなければならない。」
ー木村敏『異常の構造』第7章「常識的日常世界の『世界公式』」(下線Takeo)
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わたしをとりまくこの世界=外界は、わたしにとって、「わたしの居場所」「わたしの魂の棲み処」として、全く「自明のもの」ではない。
わたしが属しているとされる「この世界」は、
「あまりにも身近な世界、あまりにも自明な世界」ではない。
であるからわたしは常に
「これを対象化して認識したり」「それの構造を問題にしたり」するのだ。
自分の身体が、物理的にそこにあるというだけで、わたしの内面、わたしの精神は、この世界内に属してはいない。そのような感覚はこの10年来わたしが折に触れて感じていることだ。
逆に言えば、多くの人たちにとって、「この世界」が、彼ら / 彼女らにとって「自明の」世界であるとするなら、いったいその違いは何に由来するのだろう?
わたしが「この世界」への違和感の象徴として「スマホ」を度々持ち出すのも、何故彼らは、「それ」を持つことが、あたかも「この世界」で生きる上で「自明の事」のように考えているのかがわからないからだ。
何故彼らにとって自明の事柄の数々が、わたしにとってはまったく不可解なこと=自明性を欠いたことなのだろうか。
いったい多くの人たちは、年齢や性別、知能や性質の如何を問わず、「今ここにあるこの世界」を自分の存在にとって自明であるという「公理」を、いつ、どこで身に着けたのだろう?そしてその「自明性」の因って立つ「根拠」とは・・・
わたしにとって「この世界」は
「いくつかのありうべき可能性のうちの一つの特殊例に過ぎないもの」であって、「スマホ」を持つという「選択」もまた、いくつかの選択肢の一つに過ぎない。それを持つことはわたしにとってなんら「選択の余地のない」「自明の事」ではないのだ。
そして、この世界に生まれてきたことが、この世界で生き(続け)なければならないという「争う余地のない」「自明性」には決してならないことは言うまでもない。
多くの人たちにとって、「この世界」に生を享けたことは、ひょっとしたら、絶対的な必然性を持つものかもしれない。けれども、わたしにとっては、「いくつものありうべき可能性の中」から、偶々「この世界」に落ちてきただけのことなのだ・・・
ー追記ー
何かが「自明である」ということは、それについての「検証」も「論証」も省かれているということに他ならない。何故そのような無批判・無反省の事柄を肯んじようか。
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