2019年1月4日

この不思議な世界2


「あれこれと言葉を模索しながら彼女が訴えようとしていた彼女の「障害」あるいは「欠点」は、一言でいえば、彼女には世間一般の人々にとってはまったく自明の理である常識がわからないということだろう。「だれでも、どうふるまうかを知っているはずです。そこにはすべて決まりがあります。私にはそのきまりがまだはっきりわからないのです。基本が欠けているのです。」「私に欠けているのはほんのちょっとしたこと、大切なこと、それがなければ生きていけないようなこと・・・」「なにかが抜けているんです。でもそれが何かということを言えないんです。どんな子供にでもわかることなんです。ふつうならあたりまえのこととして身につけていること、それを私はいうことができません。ただ感じるんです・・・

これと本質的に同一の「障害」を、わたしの患者は、たとえば次のように表現している。

「どこがおかしいかわからないが、どこかおかしくなる。自分の立場がない感じ。自分で自分を支配していない感じ。なにかにつけて判断しにくい。周囲の人たちがふつうに自然にやっていることの意味がわからない。皆も自分と同じ人間なんだということが実感としてわからない。なにもかも、すこし違っているみたいな感じ」
 (略)
私は先に、常識とは知識ではなく感覚の一種であり、それもいわば実践的な勘のようなものだと述べた。実践的な勘は、私たちの意識生活においてはつねに背景的にしかはたらかぬものであり、「ちょっとした勘をはたらかせれば」といういいまわしからも判るように、意識面での比重からみればごく些細なことである。ところがこの些細なことがひとたび見失われると、私たちのあらゆる行動が、それだけでなく私たちのあらゆる感覚が、支えを失いけじめを失って実践的現実に適応しなくなる。私の患者が「すこし違っている」といい、アンネが「ちょっとしたこと、それがなければ生きていけないこと」といったのは、まさにこのような意味での常識に他ならない。」(下線Takeo)
ー 木村敏『異常の構造』第5章「ブランケンブルグの症例アンネ」



上で木村敏が紹介しているのは、ドイツの精神病理学者ブランケンブルグの著書『自然な自明性の喪失』(1971年)の中心に置かれている一女性患者アンネの症例である。
アンネ自身の言葉である「自然な自明性の喪失」という感覚はわたしにもよくわかる。


「彼女はいつも自分の疑問に対する答えを欲しがっていた。それは、大人になるとはどういうことか、自分のどこが悪いのか、日常生活のちょっとしたなんでもないことや、ごくありふれた言葉の意味などが、どうしたらわかるのかといった疑問だった」(同上)



わたしには、自分がこの世界に置かれているという感覚はあるが、この世界の一員であるという実感がない。であるから、「彼ら / 彼女ら」にとって、まったく「自明」のことの多くがよくわからない。
木村敏の患者の言う
周囲の人たちがふつうに自然にやっていることの意味がわからない。皆も自分と同じ人間なんだということが実感としてわからない。」という言葉は、正にわたしの言葉でもある。

また『自然な自明性の喪失』というが、「自然な自明性」とはいったい何だろう。
そもそもわたしにとって自然な=当たり前に「自明な事」などというものが存在しているのだろうか?

仮に木村敏の患者やブランケンブルグの患者であるアンネ、そしてわたしが「皆と同じ人間ではない」としたら、「人間にとって自明の事」はわたしたちにとってはまったく「自明の事」ではあり得ない。



所謂「引きこもり」や心を病んだ人たちの書いたブログを読んでいると、そこには、自分も皆と同じような普通の生活を持ちたかったという声があちこちから聞こえてくる。
「普通に学校を卒業して、普通に就職して、普通に結婚し、子供をもって、両親に孫を抱かせて・・・云々」と。けれどもそれぞれの事情によって、その「普通のこと」を達成することができなかったと嘆いている。

つまり彼らは、何が「普通」=「常態」であるのかということをきちんと弁えている。少なくとも、自分が「この社会」の中で、何をすべきか?何がしたいのか?何をしなければならない(とされているのか)を知っている・・・

しかしわたしには彼らと共通した感覚が欠けている。何ひとつ当たり前でふつうのこと=生きてゆくうえでの自明の事がないのだから。





自然は、あるいはこの宇宙は、存在する必要もなしに存在しているに過ぎない。太陽の運行は確かに規則的である。しかし太陽が存在するということ、それが運行しているということ、さらには人間を支えているこの地球が存在し、太陽との規則的関係において運行していること、地球上にそもそも生命なるものが存在するということ、これらはすべていっさいの規則性を超越した大いなる偶然でる。そしてそれが偶然であるかぎりにおいて、合理性とは真正面から対立するものである。
この大いなる偶然性・非合理性こそは自然の真相であり、その本性である。それが人間の目に見せている規則性や合理性は単なる表面的な仮構にすぎない。
真の自然とはどこまでも奥深いものである。自然の真の秘密は私たちの頭脳でははかり知ることはできない。そのような自然を人間は科学の手によって支配しようと企てたのである。そして自然の上に合理性の網をはりめぐらせて、一応の安心感を抱いて、その上に文明という虚構を築き上げたのである。

現代の科学信仰をささえている「自然の合法則性」がこのような虚構にすぎないとしたら、その上に基礎を置くいっさいの合理性はみごとな砂上の楼閣だということになってしまう。そのような合理的な世界観は、それがいかにみずからの堅牢さを妄信しようとも、意識の底においてはつねに、みずからの圧殺した自然本来の非合理性の痛恨の声を聴いているに違いない。それだからこそ、この合理的世界観は、いっそう必死になって自らの正当性を主張するのである。」(下線Takeo)
同書第1章「現代と異常」


ー追記ー

木村敏が「わたしたち」を「常識」に対する「非常識」と呼ばずに「反常識」と呼んでいることが興味深い。
何が嫌いと言って、「わたし個人がどう思おうとそれが現実というものなんだから・・・」という態度ほど嫌悪を催させるものはない。

















10 件のコメント:

  1. こんばんは, Takeo さん.

    「あたりまえ」がわからなくなったアンネ・ラウの症例は, 現在の私にとっては意識せざるを得ないものです.
    『自明性の喪失 ── 分裂病の現象学』 (W. ブランケンブルク 著, 木村敏 / 岡本進 / 島弘嗣 共訳) を読んだのは仕事に付いた最初の年です.
    自分の精神的な弱さに対する不安と恐れがあり, 買い求めた一冊です.

    アンネ・ラウが苦しんだ「あたりまえ」── 自分のこと, 家族のこと, 他者との関係, 仕事をやっていくこと, 等々 ── はその時の私にとっても恐ろしいもので慎重に対処すべきものでもありました.
    それでも私はその中で自己を確立してやっていけるだろうし, そうやって生きていけそうだ, と感じていたのです.
    自分は「あたりまえ」を相対化できている. 若さゆえの無根拠の自信がありました.

    しかし, 程なくして鬱病に罹って初めて, 「あたりまえ」は私に対する攻撃として降り掛かってくることを知りました.
    普通にしていれば大丈夫, 皆と同じにやるだけだから簡単, 大人の常識, 気配りだけできれば問題無し, そういった「あたりまえ」が私にはわからない, もしくはできない, そして自己肯定感の低さから来る罪悪感...
    その攻撃を振り払う力はもはや私にはありませんでした.

    現在では, 自分は何処に居るのだろう, 自分が居なくなってしまうのではないか, という地点にまで後退しています.

    アンネは, 彼女の宿痾としての分裂病によって自明性の喪失点に追い込まれました.
    私はそれを相対化できていて「あたりまえ」の中で個を確立できる筈でしたが, 人間関係で重ねた精神的な無理や仕事での大きな失敗, 鬱病による自己否定や罪悪感を経て, 自明性を見失いつつあります.
    辿り着くに至った道筋はアンネと全く異なりますが, この場所はとても苦しい.

    最初に読んで 30 年経つ間に何度かの読み返しを経て, やっと, アンネという一人の女性の症例が書籍にされた必然性を感じています.
    これは私の問題です.
    そしておそらくは, 「あたりまえ」を何の問題も無く受け入れているであろう全ての人の問題でもあると思います.

    Takeo さんは, 「生きていくうえでの自明の事がない」と書いておられますね.
    私は Takeo さんのこの言葉に頷きつつも, 常に付き纏う不安ゆえに自分は何処にいるのかに考えが向いてしまいます.
    それは, どこにも無い足場を探し求める行為でもあるのでしょう.

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    1. こんばんは、底彦さん。

      コメントをありがとうございます。

      このような記事を誰かが読んでくれるとは思いませんでした。確かにいろいろな「心を病んでいる」人たちのブログを読んでいますが、わたしの持つこのような「感覚」を理解し、共鳴してくれる人がいるとも思えませんでした。
      ですから一連の木村敏関連の投稿は、あくまでも自分のための記録でした。

      底彦さんの記述で気になったのは、「あたりまえ」を「相対化」して「自己を確立する」(し得る)という個所でした。

      ふつうに暮らしていくには、当たり前を相対化することは、ある種の危険(?)を伴うと思います。多くの人は、「当たり前に埋没する」ことで安心立命を保っています。それを相対化し、個を確立するということは、強靭な精神力を要することでしょう。

      「相対化」という発想自体、既に「自明性」=「疑う余地(必要)のないもの」への懐疑に他なりません。そのようなスタンスは、現実には日本の企業社会ではほとんど不可能なことかもしれません。

      わたしに「自明の事」が「予め失われている」のは、意図的な作為によるものではありませんが、この社会での「常識」「決まり事」の拘束力の強さの中で、個を確立し得る自信がまるでなかったという無意識のなせる業かもしれません。

      「当たり前」「自明性」(とよばれているもの)に自己を埋没させてしまうことを潔しとしなかった底彦さんの態度は、人として本来あるべき姿ですが、それを許容しないのがこの社会です。

      わたしの勝手な、おそらくはまったく見当違いの見方でしょうけれど、底彦さんが喪いつつあると感じている自明性とは、あくまでも「社会との関係に於ける」自明性ではないのかと感じます。社会との繋がりをどのようにして獲得するか?またそれをどのように維持していくのか?その関係性への現在の見通しの利かなさが、底彦さん自身の存在の自明性の危機に繋がってはいないでしょうか。

      わたしのような暖衣飽食の身には底彦さんの秋霜烈日の苦痛は到底わかりようもありません。ただ、無責任な愚者の放言ついでに・・・自分は何処にいるのか?という不安の裏には、人は皆何処かに居なければならないという考えがあるのではないか、と感じます。生きている以上、誰しもに何らかの「足場」はあるはずです。それが野宿者でも、重度障害者でも。またわたしのような者であっても、生きていること即ち足場を持っていることではないでしょうか?

      先日引用した矢川澄子の「湧きいずるモノたち」の大きなデュモンさんの影に完全に隠れてしまった自分の影。わたしは今影のない女・・・寒くなって少しでも日を浴びようとデュモンさんの影の中から歩きだして、彼女は自分の影を持つ。ひとつだった影がふたつになる・・・

      底彦さんの文章を読んで、底彦さんは自分の姿をこの地上に映すことによって、自己の存在を再確認したいのではないか。などと・・・

      おそらくまったくピント外れのことを書いているのでしょう。

      ただ、わたしはいつも底彦さんのことを思っています。
      少しでも日の当たる場所にいる時間が増えてゆくことを願いつつ・・・



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  2. P.S.

    何もお役に立てませんが、何か話したいとき、愚痴でも、考えを整理したいからということでも、いつでもコメント欄を利用してください。

    上記のわたしの返事に対する反論も歓迎します。いっしょに考えていきましょう。


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    1. こんばんは, Takeo さん.

      Takeo さんが書かれているように, 確かに私は社会との関係性の中における自明性に引き摺られています.

      短く書いてみますが, その根本には, 自分自身というものがあまりにも不安定で, それを確かなものとして捉えることができていないことがあると思います.
      だから, 私という存在を確かめるために自分の姿を社会との繋がり・関係性の中に探してしまう, 求めざるを得ないのです.
      一方で, 社会の中で必然的に関わってくる「自明性」に自分は堪えられず, そこから逃げた挙句に自己否定や罪責感のループに取り込まれてしまいます.
      これは, 子どもの時から苦しんできたことで, この先も苦しむでしょう. 鬱病になったのは, 自身の生まれながらの気質と不器用さを考えると, ある意味では必然とも言えます.
      ※: 以前私を診てくれた老医師との対話からわかってきたことです.

      生きていること自体が自分の証明になり得る, という考えに出会った時には本当に救われました.
      Takeo さんの書いていることはその通りだと私も思います.

      自身の生を自分に問いかけ, 確かめ続ける. これによって私が前に進むことができたのは間違いありません.
      短い一時ではありましたが, この確信を出発点として世界に踏み出して行くことで, 確実に社会の中における私自身の自我というものを感じることもできていたと思います.

      でも難しいですね. 克服できたと思った「自明性」は仕事に就いてから ── つまり仮免許の段階を過ぎて, 実際に道路に出て本番運転を始めてから ── 自分にとって一層複雑で困難なものとなり, 私は対応できずに鬱病を発症し, 通院しながら重ねた無理と酒への依存を経て倒れてしまいました.

      倒れるに至る過程で, 何もできない自分に意味は無い, 周りに迷惑を掛けるだけ, 邪魔なごみと同じ, 自分は屑, という結論に辿り着きました.
      その結論を得た時に自分を支えてくれていた, 「生きていることが自分の証明になる」という言葉も, 私の中から消えたと思います.

      今の私の苦痛は, 自分は何一つ確かなものを持っていないという意識から来ているのです.
      自らの有りようがあまりにも希薄なのです.
      どう言い繕っても駄目です.

      ところで, Takeo さんが矢川澄子さんの「湧きいずるモノたち」から引いてくれた

      > 大聖堂の広場にて
      > 岡の上の町ではほとんど真横から夕日が当る。
      > 甃(いしだたみ)にデュモンさんの影が長く伸びている。
      > わたしはわざと、彼の影の中に立つ。
      > デュモンさんは大きいので、こちらはまるごとすっぽり、彼の影の中につつみこまれてしまう。
      > わたしはいまのところ、影のない女、なのだ。
      > 春の日差しは弱々しく、夕暮れとともにうすら寒さがしのび寄ってきたので、わたしはコオトの襟を立てながら、思わず影を避け、少しでも日に当たれるように西日の中へ歩み出す。
      > 影は二つになり、わたしはデュモンさんの腕にすがる。
      > 風が立ちはじめている。

      は美しい光景ですね. デュモンさんの大きな影の中から, もう一つの小さな影が生まれ出てくる映像が浮かんできます.

      私がデュモンさんの影の中から出たときに, 影はちゃんと付いてきてくれるでしょうか.

      ※: 矢川澄子さんは未読でしたが知ることができて良かったです. ありがとうございます.

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    2. こんばんは、底彦さん。

      以前ごく親しい友人が「人間とは諸関係の総和だ」と言っていたことを思いだします。それはそうだなと思う一方で、「わたし」という一個人は、すべて、関係性の裡に還元され得る存在なのかという一抹の反撥もありました。

      「孤独死」というのも、それだけが単独にあるわけではなく、そこに到るまでのその人の「孤独」(乃至「孤立」(?))の状態の延長線上に、結果としてあるわけです。

      もちろんほんとうに「生活するうえで」最低限度の接触で充分、という人もいるかもしれません。けれども、わたしのような者は、ひとりで食事をしている人(特に老人)が、心底人間嫌いであったり、孤独に安んじているのだろうかと訝ります。
      きっとどうしようもなくそういう状態にいるのではないだろうか、心の底では、人との繋がり、ふれあいを求めてしまうのが、これもまた動物の一つの種類に過ぎない人間の性(さが)なのではないか、と。

      底彦さんは、自分というものがそれだけでは単独では立っていられないほど不安定な存在である、という認識から、関係性の内側で「自己」を確立しようとしているのかもしれません。しかし逆に言えば、関係性の中で自己を保持するということは、単独でよろめきながら立つことよりも、より困難なことのように思えます。
      なまなかなことでは動じない、揺るがない自己が先ずあって、その上で、関係性の中に入っていくのでないと、あっという間に関係性という蜘蛛の糸に雁字搦めになって身動きが取れなくなる(=自己を失う)のではないでしょうか?

      (社会の)自明性・関係性の中に身を置くということは、それに埋没せず、翻弄されないだけの強靭な自己ないし自我を前提とするのではないか?などと考えます。

      社会の自明性や、否応なく纏わりついてくる関係性と、毅然と距離を取れる自我の強さがあって、はじめてそれに絡めとられることのない「関係性」「自明性」が立ち現れてくるのではないでしょうか?

      不安定な自我を、関係性の網の中で保持しようというということが、なにか、さかさまの発想のように思えてしまうのです。

      自分はクズである、ゴミである、という自責の念も、そもそも第一義的に、「人間は社会的に有用な存在でなければならない」という「仮の自明性」に依存・立脚しているが故に生まれる感情ではないでしょうか?

      とは言え、わたしたちは誰しも、特定の社会のなかに生まれ、その社会の成り立ち方、在り方を身に付けてゆくことを、「成長する」、あるいは「大人になる」、「真っ当な人間になる」・・・という価値観の只中で生きているわけですから、それを「相対化」することは生易しいことでないことくらい、わたしのような愚か者にもわかります。

      わたしが考えるのは、底彦さんの言われる

      >私という存在を確かめるために自分の姿を社会との繋がり・関係性の中に探してしまう, 求めざるを得ない

      というところをもう一度考えてみてはどうだろ、ということでしょうか。

      と、何やら独り決めの説教染みたことを滔々としゃべっている自分を羞じます。

      わたしはいったい底彦さんの現実の何を知っているというのでしょう?
      底彦さんはわたしに何か助言を求めたでしょうか?

      無責任に勝手なことを言ってるよと嗤ってください。

      第一わたし自身がまったくこの世界に足場がないと感じているのです。

      何ひとつ確かなものを持っていない。
      己の存在がまるで幽霊のように浮遊している者にいったい何がいえるでしょう・・・

      ただ、わたしは「にもかかわらず」いや、今のような苦しみを抱える人だからこそ、
      底彦さんの心の穏やかならんことを願わずにいられません。

      大丈夫ですよ、影は決して去りませんよ。影を友として、わたしの出来ない散歩をたのしんでください。

      このコメントでご気分を害されたなら、深くお詫びします。笑い飛ばしていただければ幸いです。




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    3. こんばんは, Takeo さん.

      返信をありがとうございます.

      Takeo さんは, 私が単独で立てないほどの不安定さから関係性の内部で自己を確立しようとしていること, しかしそれは, 単独でよろめきながら立つことよりも困難な試みではないか, と書いていますね.

      確かにそうかも知れません.
      私は自分自身があまりにも不安定で希薄であると感じています. その不安に堪えられないために, 社会との繋がりを求めてしまいます. それにより生じるいくつもの関係性の糸が, 不安定な私を世界に繋ぎ止めてある種の確かさを与えてくれると考えているからです.

      Takeo さんの仰るように, これは私にとってかなりの無理を伴う行為です.
      実際に, 私が自分を救うために社会に無理矢理に張った関係性の糸は, 悉くうまく行っていません. どの糸を辿っても, その先には仲間との関係の悪化と孤立, 仕事の失敗, 金銭のトラブル, 責任問題などの望まない結果が待っていました.

      素直に受け止めればこれらは, 私に備わっている何ものか, 少なくとも関係性の局面において明確に悪影響を及ぼす何ものかが引き起こした結果と考えるのが自然です.
      私も, 間違い無く自身がそのような特質 (欠落?) を持っていることを身を持って非常によく知っている筈なのです.

      ではなぜ私は無理をしてでも関係性の内側で自己を確立しようとしてしまうのでしょう?
      以下は Takeo さんの返信を読んで考えたことです.

      私を抑圧し続けている思考の一つに「どんなことがあっても人に迷惑を掛けてはいけない」というものがあります. どうしてもこの思考から逃れられません.
      非常に偏った, 極端な思考です.
      この思考を端緒として, 私は延々と「これまでお前が迷惑を掛けた全ての人に生涯を賭けて人として誠意を持って償わなければならない」と自分を責めています.

      そして, この極端に強い罪悪感が, 償いを私の存在の意味とし, 私に「迷惑を掛けた全ての人」に償うために必要な社会との繋がりを作ることを求めさせているのではないかと思うのです.

      > 自分はクズである、ゴミである、という自責の念も、そもそも第一義的に、「人間は社会的に有用な存在でなければならない」という「仮の自明性」に依存・立脚しているが故に生まれる感情ではないでしょうか?

      はい. その裏返しとして「社会的に無能な自分は, せめて償いだけは人として最低限行わなければならない」という強迫的な意識が生まれてくると考えると何となく自分の中でこの苦しみを納得できる気がします. 尤も私には「人として」の「人」とはどのような存在であるのかがわかりません. 何一つ確かな自分が無いのです. これが私の, 社会的な「自明性の喪失」であるのかも知れません.

      > わたしが考えるのは、底彦さんの言われる
      >
      > >私という存在を確かめるために自分の姿を社会との繋がり・関係性の中に探してしまう, 求めざるを得ない
      >
      > というところをもう一度考えてみてはどうだろ、ということでしょうか。

      正直なところ, 少なくとも現在の私にはこれは難しいことです.

      私がどこかの時点で

      「自分は皆がうまく行っているところを駄目にしてしまう. 多くの人に迷惑を掛けてしまう. 償うこともできない. そういう生き方しかできないのだ. そういう人間なのだ」

      と認めることができれば, 上で述べたような偏った抑圧思考から解放されて救われるのだろうかとは感じます.

      ただ, 鬱病とそれに伴う自己否定と向き合ってきた中で, 私が保つことができ, なおかつ壊したりせずに済む関係性も見つかりました. 精神科のデイケアでの友人, 作業療法のアトリエでの友人, アルコール依存症の自助グループで顔を合わせる名も知らない仲間たちとの関係がそれです.
      ただ私は, 彼らを理解することはできません. 今後もできないと思います.

      一方で, 彼らは過去に何処かで, 壊しあるいは壊され, 放り出しあるいは放り出されて, やっと今の場所に流れ着いたのではないだろうか, と想像はできるのです. 望まなかったにせよ, ほんの少し何かが狂い何処かが病んでしまった者の集まる場所に, です.
      傲慢な言い方ですね. こんな言い方しかできない自分が恥ずかしいです.

      奇妙なことですが, この小さな場所では, 私は静かに穏やかに居ることができています.

      再び「関係性」ということで言えば, 私には上に挙げた場所と, 最低限の社会との表層での繋がり ── 商業施設や役所など生活のために関わらざるを得ないシステム ── があれば充分です. その上で内的世界に自己を求め, 形作っていければ良いと望んでいます.

      長文失礼いたしました. 自分のことばかり書いてしまって申し訳ありません.

      私は, Takeo さんが自分の病 (Takeo さんは狂気と書かれていますね) と向き合う姿に, 何か深く真なるものを感じています.
      ご自身の苦しみが如何程のものか想像もできませんが, それがブログの文章の真摯さに現れているのではないかとも思います.
      そのように綴られた返信の文章から, 今回私はいくつかの希望のようなものを見出だせたようです. 感謝に堪えません.
      Takeo さんが穏やかな日々を過ごされますよう祈っております.

      ありがとうございます.

      P.S. 返信は Takeo さんのブログの先頭の記事へのコメントとして書き込んだほうがいいですか? 流れがわかりにくくなるので, 以前の場所に書き込みましたが, Takeo さんが見つけにくいなどの不便があれば改めます.

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    4. こんばんは、底彦さん。

      昨日はコメント欄が賑わってしまって、居心地が悪かったのではないですか?

      「社会」を単純に「働いてお金を稼ぐ場」と限定してしまうと、当然その関係は「利害関係」になります。確かに昔の日本映画など見ていると、小さな町工場で、どうしてもやりくりに困った者が同僚に金を借りてなんとか凌ぐ、というシーンも見ます。彼らはそこで賃金報酬を得ているわけですが、同時に「同じ職場の仲間」「困ったときはお互いさま」という意識がある。規模が小さいだけに、家族のようなつながりも成立したのでしょう。

      この「家族のような会社」というのを嫌う人もいますね。仕事は仕事、プライベートはプライベート、お互いに個人の生活まで踏み込むのはよそう、と。
      そのように割り切って社会との関係を築く場合、どうしても、「情」を排したドライな関係になります。金を貸してくれと言われない代わりに、こちらが困ってもそれを言うことができない。

      これは金銭に絡んだことばかりではなく、人間関係のあらゆる側面について言えることではないでしょうか?「情」よりも「義理」=「責任」を重んじる社会は心身共に疲れますね。

      「情」は損得勘定抜きの関係と言っていいでしょう。一方「義理」は、「一宿一飯の恩義」というくらいですから、借りた恩義は返さなければならないという「黙契」があります。それが時に「責任」とすり替えられるわけです。しかし厳密に考えれば「義理」と「責任」は必ずしも同一のものではないはずです。「義理」に伴う「黙契」はいわば慣習的なものですが、責任は「義務」になります。

      「関係性を悪化させる欠陥」と言われますが、誰しもがこの利害優先の社会を無傷で泳いでいけるとはおもいません。底彦さんの場合は、人間的であるが故に、「損得勘定」という血の通わない数式から零れ落ちたのではないでしょうか?
      そして「血の通わない関係性」とは、そもそも撞着ではありませんか?
      少なくとも、「血の通わない人間性」の中に底彦さんの安住はあり得ないと思うのです。

      「人に迷惑をかけてはいけない」この場合の「迷惑」というものが、どういうものを指しているのかはわかりませんが、神ならぬ生身の人間であるわたしたちが、完璧を志向すること、即ち「過たぬ存在でなければならない」という発想こそ、人間は無謬でなければならない、すべてを遺漏なくこなさなければならないという、本来不可能な課題を自らに課していることに他ならないのではないでしょうか?

      人間は万能であるから、転ぶことも、躓くことも、病むことも、過つことも、穴に落ちることもない。そんなある種の倒錯した「人間万能信仰」が、「過つべき定め」を負う人間を病ませているのではないでしょうか・・・

      辺見庸がよく引用するフレク・グレヴィルの戯曲の言葉・・・「病むべくして創られて、健やかにと命じられ・・・」
      それ自体病んでいる社会と緊密な関係を結ぼうと努めれば努めるほど、人間の闇は深まってゆくのではないでしょうか。

      償うため社会との関係を再構築・・・これでは永遠の悪循環から抜け出すことはできないのではないでしょうか?
      人に誠実であること、それは必ずしも借りた金を残らず返す、掛けた迷惑を埋める・・・ということではないと思います。人は全ての戦場で勝利を収めることができるでしょうか?「出来ない自分を認める」これが自分に対しても、また社会に対しても本来の誠実な姿勢ではないかと思うのです。
      そんな言い草は理想論、机上の空論だと思われますか。

      「負けを認めろというのか」──そうではなく人間は誰しも常勝ではないということ、敗けるのが人間であるという発想が現代ではあまりに等閑視されているようです。

      わたしは底彦さんのデイケアの友人、アルコール依存症のピアカウンセリングの仲間たちへ注ぐ眼差しにある種の距離を感じてしまいます。

      傷つけ、傷つけられ、何かを得て、なにかを失う、そもそも人間てそういう存在ではありませんか?

      >ほんの少し何かが狂い何処かが病んでしまった者

      ほんの少しでも、大きくでも、同じです。それが本来の人間、不器用で、どうしようもない存在。それがそもそも「人間」というものだとわたしは思います。

      人間て、文明が幾ら進歩しても、所詮は古い時計と同じで、放っておくと狂ってきます。だからゼンマイを巻いたり、時刻を合わせたりという「手当て」「手間」を要するのです。

      自分たちを取り巻く社会が、ほぼ狂いのない精巧な機器に溢れているからといって、自分の生体をそれらと同一視すること自体、錯誤はないでしょうか?(これは底彦さんに向かって言っているのではありません)

      >奇妙なことですが, この小さな場所では, 私は静かに穏やかに居ることができています.

      全然「奇妙な事」ではありませんよ。そこに素のままの「人間がいる」ということです。

      少し底彦さんの中で、社会との距離を置くこと、また自己の内面とのかかわり方へ視点が移動してきたことは何よりだと思います。

      今日もまた勝手なことを書きました。もし攻撃的に感じられたら、その点は深くお詫びします。

      コメントはここに書いてくださって構いません。また底彦さんの中で、一段落ついたと思ったら、敢えて返事は要りません。

      ただ、いつでも気軽に思ったことを書きこんでください、という姿勢はこれまでと同じです。混んでることはほとんどありませんから(苦笑)

      心穏やかな日が一日でも多くなることを願っています。






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  3. Blueさん、2019年、あけましておめでとうございます。
    ずいぶん長年お世話になっております。
    今年もよろしくお願いします。


    わたしは非常識でもなく反常識でもなく、
    なぜか「無常識」なのであり、それだから
    生きづらいのだと思ってゐます。

    「無常識」ゆえに、わたしは自分が生きるための
    「地図」や「企画書」を描くことができずにいます。
    常に迷ってばかり・困惑してばかり・絶望してばかりであり、
    「安定」することがありませんし、希望を持つこともありません。

    ___________


    昨年12月16日の、Blueさんの質問を、元旦に読みました。
    ぶらじゅじゅろ~ぬさんが私信でわたしに教えてくれたのでした。
    わたしは猪突さんの回答が気に入りました。


    その言葉にまつわる「コト」に対して
    積極的に好奇心や興味を持ったことがあり、
    そしてそれを心の引き出しにしまってあるかどうかによって、
    ある「言葉」が琴線に触れるかどうか、だとか、
    ある「言葉」が「腑に落ちる」かどうか、が決まる、
    というようなことを彼は云ってゐるような気がします。


    また、このやうな引き出しが無ければ、
    「たかが言葉」によって人が変わることは無いと思います。
    人それぞれ数年や数十年の、己の歴史を持ってゐるのだから、
    「たかが言葉」によって変わるほど軽い存在はないと。



    わたしの周囲に多く居る「自分では変われない人たち」と、
    わたしは毎日、関わらざるを得ないのですが、
    わたしは「自分では変われない人たち」を
    哀れんだり軽蔑したり嘲ったり侮辱する者ではありません。

    お互い様、と思ひ、適当な距離を保ち、
    変われない者同士、認め合って…いや…譲り合って…いや
    そこそこ妥協し合って生きてゐるのだと思ひます。


    お互い、人間臭いなあと思ってゐると思ひます。
    臭いものに蓋をできたらどんなにラクか、とも。

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    1. こんばんは、瀬里香くん。久し振りですね。

      昨年はほとんど話しませんでしたね。わたしが見た最後の瀬里香くんは、ファイナンシャル・プランナー(でしたっけ?)の資格を取得して、就職した。そしてフェイスブックの友達と仲良くやっている。そこで途絶えています。

      昨年はほとんどフェイスブックには顔を出しませんでしたので、他の人たちの動向もまるで知りません。
      瀬里香くんのブログにも何回か訪れましたが、いつも見られない状態で。
      だからまあなんとかうまくやっているんだと思っていました。(別に過去形ではありません)

      だから

      >常に迷ってばかり・困惑してばかり・絶望してばかりであり、
      「安定」することがありませんし、希望を持つこともありません。

      などと書いてあると、え?どうかしたの?と・・・

      「言葉で人は変われるか?」なんであんな質問をしたのかよく憶えていないのです。
      ただ、あのときには、2007~8年当時のハコブルさんのブログを読んでいて、
      自分にも、こんな風にスムーズに人と話が、気持ちが通じていたことがたとえ一時期でもあったんだということに驚いていました。
      これまでの人生の中で、あんなに当たり前にひとと話せたということが他に見当たらないのです。

      わたしも猪突さんの意見に全面的に賛成でした。けれども、キサラギさんが、真っ向から対立した意見を出してきて、わたしの中には彼のいうような要素が、資質がまるでないことを改めて知らされ、また、彼の言うのがおそらくは世間的には正論なんだろうなと思い、その点いろいろと考えさせられたという意味で、彼をBAにしました。



      わたしも自分では変わることの出来ない人間です。というよりも、昨年一年、このブログに色々な形で書いてきたのは、「自分がどう変わろうとも生き易くはならない」ということでした。例えば単純に元気になる。外に出られるようになるという変化があっても、元気になってもやることもやりたいこともない。外に出られるようになっても行くところがない。だから変わろうと変わるまいと何も違いはなのです。

      だからといって、わたしは永遠に変化しないかといえばそんなことはありません。
      人は変わります。今わたしとハコブルさんが、10年前と同じように通じ合うということはないでしょう。わたしも変わったし、彼も変わっているでしょう。

      それから、上にコメントをくれた底彦さんとの違いを考えました。
      それは、わたしにとっては、そもそも「生きること」「生きてゆくこと」でさえ、全く「自明の事」ではないのです。このことはここ数年、つまりほぼ完全なひきこもりになり、また他の「人間たち」と「言葉が通じない」ということが、観念的ではなく、現実の状態になって以降、より強く思うようになりました。

      >常に成長できる人たち・・・

      「成長」「成熟」という言葉も、昔からよくわからない言葉でした。そして今になってはまるでわからなくなってしまっています(苦笑)



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  4. PS.
    わたしも「自分では変われない人」のひとりですから、
    常に成長することができる人たちからは、
    呆れられているかもしれません。

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