●「健康」という概念の中には、ある人が故障なしにふつうに生活をしていけるような、ふつうの時期の状態という意味が含まれている。つまり簡単にいうと、「健康」という言葉には「常態」という意味がある。したがってこの場合には、「異常」すなわち「正常値」の上限・下限いずれの逸脱も、その人の常態からの逸脱、つまり「不健康」あるいは「病的」の意味を持ってくる。
(略)
「治療」とは異常値を正常値にまで復帰させるという意味を帯びており、それはとりもなおさず、ある個人について常態をはずれた状態を常態にまで復元するということなのである。
● われわれは奇型は醜いものという動かしがたい偏見を持っている。これは整然たるもの、規則的なものに対する、不整のもの、不規則なものという考え方から来ていることであるけれども、手の指が五本あるのが規則的で、四本や六本ならば不規則という理屈はどこにもない。
われわれの日常的・常識的な美醜の判断がいかに習慣的な先入観によって左右されているかは、驚くべきことである。いずれにせよ、ここでは、「異常」がひそかに「劣等」の意味を帯びていることは否定しがたい。
● 常識は一種の「考え」の基礎になるものではあっても、理詰めの、理論的、推論的な判断とは別種の、むしろこれに対置されるものである。つまり常識には、理論的分別知以前の、一種の勘のようなはたらきが属しているのではないだろうか。
● 常識とは、人びとの相互了解場における実践的感覚が、ある種の規範化をこうむったものと解することができる。
(略)
常識といわれるものが存在すること、それが一種の規範性を帯びたものであり、公理的なものであることは、時代や文化の相違を超えて人類の共同体一般について言えるようである。
「公理」という言葉は、今日では「自明の事として証明なしに真理として受け取られるような前提」という、きわめて論理的な意味で用いられている。しかしそれの源になっているギリシャ語のアキシオーマは、「人々が共通に真または美と判断するもの」という、より世間的で実践的な意味を持っていた。いま、「あるものはそれ自体にひとしい」という公理についてみると、これは一見、それ自体において当然な、絶対的な自明性をもっているように見えるけれども、これが真理とみなされるのは、人びとが共通にそれを真だと判断しているからなのである。判断といっても、私たちはこの公理を理論的・推論的に証明することはできない。これはまさに、センスス・コムーニス(コモン・センス)とよばれる感覚によって直観的に感じとられる以外には近づきようのない「真理」である。そしてこの「真理」は、人びとが共通に「それ以外には考えようのないこと」として感じとっている限りにおいて、強い規範性を帯びてくることになる。
常識が帯びているこの強い規範性は、常識を外れたものの見方や行為に対する強力な規制の根拠となっている。精神異常者が日常性の社会から徹底的に排除されるのは、常識によるこの規制措置の結果である。
● このような思考様式は「異常」とみなされるものである。しかし、この「異常」は決して「劣等」を意味しないはずである。患者は私たち「正常人」の常識的合理性の論理構造を持ちえないのではない。すくなくとも私たちと共通の言語を用いて自己の体験を言い表しているかぎりにおいて、患者は合理的論理性の能力を失っているわけではない。むしろ逆に、私たち「正常人」が患者の側の「論理」を理解しえないのであり、分裂病的(反)論理性の能力を所有していないのである。患者がその能力において私たちより劣っているのではなくて、私たちがむしろ劣っているのかもしれない。ヤスパースが分裂病体験を「了解不能」と述べたのは、実は「不可能」の意味にではなく、私たちの側の「無能力」意味に解さねばならないのである。
私たち「正常人」は、1=1の公式に基づいた論理を理解する能力しか持ち合わせていない。これはむしろ、私たちの思考能力のいちじるしい狭さと、偏りとを示すものに他ならない。
「正常人」とは、たった一つの窮屈な公式(A=A / A≠B)に拘束された、おそろしく融通の利かぬ不自由な思考習慣を負わされた、奇型的頭脳の持ち主だとすらいえるかもしれない。それにもかかわらず、世間一般の「正常人」は、本来自分たちよりもはるかに自由闊達な論理構造を駆使する分裂病者たちを「異常者」として差別し自分たちの社会から排除してはばからない。それはなにゆえであろうか。そのような差別や排除にはそもそもなんらかの正当な根拠があるのだろうか。もしあるとするならば、その正当な根拠とはいったい何なのだろうか。
● 現代の世論は一般に、精神異常者に対する差別を撤廃し、彼らを社会の共同生活の中へ迎え入れようとする方向で動いている。しかし、この運動が単なる感傷的ヒューマニズムの立場からなされるものであるならば、それは事態の真相を全く理解しないばかりか、偽善的自己満足以外のなにものでもないところの無意味な運動に終わらざるを得ない。
「異常者」を真の意味で私たちの仲間として受け入れようとするためには、私たちはみずからが日常なんの疑問もなく自明の事として受け入れている自己の存在という現実を、あるいはそもそも「生きている」ということの意味を、もう一度あらためて問いなおしてみるだけの勇気を持たなくてはならない。生の事実を盲目的に、無反省に肯定する立場からは、「異常」の差別に対する反省は不可能なのである。
ー 木村敏『異常の構造』講談社現代新書(1973年)より抜粋 (下線・太字・括弧Takeo)
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本書は「講談社現代新書」の分類では、「人間心理と人間関係」の中に収められている。
けれども、これは心理学や精神医学というよりも、明らかに「哲学」に傾斜している。
この本からいくつもの引用をしてきたが、それでもまだまだ書き写したい箇所はいくらでもある。そうすると、この本のほとんどの部分を書き写さなければならなくなる。
最後に本書の冒頭に木村敏が引用しているキルケゴールの言葉を。
精神病院の医者が、自分は永遠に賢明だと思い込み、彼のちっぽけな分別がどのような人生の痛手をも受けないように保証されているなどと信じるほどまでに愚かであるならば、彼はある意味では狂人たちよりも賢明であるかもしれないけれども、同時に彼ら以上に愚かなのであって、多くの狂人を癒すこともないに違いない。
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