だれでもいい、自分よりたしかに大きなものの胸にかかえこまれること。つまり力づよくHUGされること。
死すべき人の身にとって、かりそめにも安らぎというものがありうるとすれば、こうした抱擁【ハグ】をおいて他にないのではなかろうか。相手は何であれ、ともかく頼り甲斐のある大きな存在であってくれればよい。人間が神様などという超越者をつくりあげたのも、つまりはそのためではなかったか。
ー 矢川澄子「湧きいづるモノたち」『受胎告知』より(2002年)
結局わたしの求めているものはこれに尽きるのではないだろうか。
「愛」とも「恋」とも呼べないような「全き抱擁」
わたしは全存在を安んじて委ねることのできる「父性」を求めているような気がする。
それは如何なる女性でも、また母親でも代わることのできない「父性」。
同じ安心感でも、愛する女性の隣にいるときに感じるそれと、男性の傍に佇んでいる時にふと感じる安心感とは、異質のものだ。
男はHUGする側で、女性はいつもされる側と決まっているわけではない。
女性が男性を力強く抱きしめることもあるだろう。けれども、それは本質的に男性の抱擁とは違うのだ。
わたしは「男」とされている「神」の抱擁を求めない。神の抱擁はわたしの渇えを癒し得ない。わたしの渇望を充たしうるのは、わたしと同じく、滅びゆく肉体と精神をもった「生身の」男性だ。
不死の神、全能の存在によって、どうして朽ちゆくこの身が癒されよう。
わたしは未だかつて、安心感を得ることができるだろうと思える男性を見たことがない。
おそらくそれは限りなく「神」から遠い存在だろう。
神が「天」であるならば「地べた」とでもいうような者。
またそれは「悪魔」のような知恵者ではない。
人間というよりも、むしろ一本(ひともと)の大木というに近いような存在・・・
昔、女性雑誌などで、「抱かれたい男性ベストテン」というような特集があったけれど、
あの場合の「抱かれたい」はもちろんセックスを意味するのだが、
仮にわたしが力強くHUGされたい男性はと訊かれても、誰も思いつかない。
「ホモでもなけりゃ抱擁(ハグ)されたい男性なんて思いつかないよ!」
そうだろうか・・・
強く抱きしめられること、それは一言も言葉を発せずに、全存在を、丸ごと全肯定されることだ・・・
天使が翼を持つのは、天翔けるためだけではなく、相手の全身をすっぽりと包み込むためだという説を聞いたことがある。
しかしわたしが求める抱擁は天使のそれではない。枝のように細く骨ばった腕であっても、太く力強い腕であっても、いづれは我とともに朽ち、滅びる腕に、強く、ギュッと抱き締められたいのだ・・・
ー追記ー
「抱擁」による安息感は、或いはこのような生理的な感覚に似ているのかもしれない・・・
畑の中に横たわって、土の匂いを嗅ぎ、土こそが私たちの現世での右往左往の終点でもあり希望でもあると考える。
憩いを得て、分解され、溶けこんでゆくべきものとして、土(大地)以上のものを探すのは無駄な事なのだ。
ーエミール・シオラン『生誕の災厄』より
こんばんは、Blueさん。月曜日から金曜日までは、出勤の準備があるから朝6時に起きるのだけれど、今日は昼の12時まで眠りこけてゐました。今日は、12時に起きて、コーヒーを飲み、読みかけの小説を読んだあと、スーパーに缶チューハイと煙草を買いに行く以外、おそろしく何もしない1日でした。これから重い体を引きずって、風呂に入る予定です。
返信削除わたしは♂ぢゃなくて♀だしチビだし力も弱いし不器用だから、残念ながら「山脈や川や海が村を抱擁するような力強さ・打ちひしがれた関取やラガーマンを抱擁するような力強さ」は持ちません。
しかしわたしも誰かに「抱擁あるいはせめて包容」されたいと長年願ってゐます。条件はありません。誰でも歓迎します。子どもでも老人でも女でも男でも教師でも泥棒でも殺人犯でも弁護士でも裁判官でも医者でも病人でも怪我人でも沖縄県民でも北海道民でもトランプ支持者でもスマホ好きでも乞食でも脱税者でも横領者でもダウン症の人でも人格障害の人でも風俗で働く女でも死体を洗う仕事をしてゐる人でも。誰でも歓迎します。以下省略しますが。
おかしいですかね。
yy8さん、最近見かけませんね。
こんばんは。毎朝6時起きですか。この時期は寒くて辛いですね。瀬里香さんは暑い夏が大好きでしたよね。
削除今日はのんびりできましたね。明日は成人の日ですね。わたしの頃は成人の日は1月15日でした。一応出ましたが、特になにもなかったですね。当時は(一応)大学生で、大学時代は、というか、大学以降孤独な日々が始まりました(苦笑)
「おそろしく何もしない一日」がそれなら、わたしはほとんど存在すらしていないという感じです。
>山脈や川や海が村を抱擁するような力強さ
これはなかなか文学的な表現ですね。
>打ちひしがれた関取やラガーマン
ははは、失礼、なんだか想像すると笑ってしまいます。
ああそうか。瀬里香さんは、物理的に大きなもの(からだ)にすっぽりと包み込まれたいという感覚はないんですね。
無論どんな存在の抱擁でも、わたしを抱きしめてくれる人がいるのならそれはうれしいことです。肩書や属性かかわらずね。
でもやはり欲を言えば、大きく力強い(関取やラガーマンといった身体的な頑丈さとは違う)つまり包容力のある男性の抱擁(HUG)。
やはりそれは「父性」ではないかと思うのです。
瀬里香さんの気持ちは全然へんじゃありません。
yy8さんは「あちら」では見かけましたけどね。
いつも充実した──昔とかわらぬ瀬里香さんらしいコメントをありがとう。
こんにちは。
返信削除毎日、何度も見ています。
瀬里香さんがいると此処も賑やかになっていいですね。
Nicoさんは本当はハグする側だと思います。
ただ、世間に拒否されているような“生”に依って、受身的感覚が増してしまったのではないでしょうか。
ちなみに、社会に“居た”頃はどうだったのか思い出せますか。
こんばんは、yy8さん。
削除そうですか。何度も見てくれていますか^^
今のところ、3~4人はこんな奇妙なブログを読んでくれる人がいるということですね。
瀬里香さんはわたしがブログを始める前、ハコブルさんのところで話していた頃からつまり2007年以来の付き合いです。2008年にわたしが本格的にブログを始めた頃、ほぼ毎回コメントをくれていました。
いつもキレとコクのあるいい感想でした。
今でもそれは変わっていないと思います。貴重な人です。
誰かをハグできるような人に成りたいとは思いますが、残念ながらそういう器の大きさは持っていないようです。
いつも心に「すきま風」が吹いているようですが、かといって、そういうすきま風のサビシサを目張りして埋めてしまおうという気持ちはあまりありません。
風でがたがたいうようなガラス窓をサッシに替えようとは思わないのです。
さびしさもまた人間を人間たらしめる大事な要素だと思うので。
ま、毛布にくるまってそんなこと言っても説得力ありませんね(苦笑)
社会に居たという実感はほとんどありませんね。「自分が社会の中に確実に居る」という感覚があれば、今尚、その道を模索していると思います。
社会ではいつも「不在者」として「居た」ような気がします。
よい週をお迎えください^^
>そういうすきま風のサビシサを目張りして埋めてしまおうという気持ちはあまりありません。
返信削除:良かった。
わたしも自分の周りに鉄格子や鉄壁や檻や無菌室を作ろうとは思ひません。
淋しさはわたしにとって大切な感情だから、封印したくありません。
壁は空気と湿度と温度の通る、木製のべニア板ぐらいがちょうどいいかな。
オスカー・ワイルドの童話の中で、「けれども悲しみを作られた神は我々よりも賢明ではないのでしょうか?」というセリフがあります。
削除なかなか難しい言葉です。悲しみに押しつぶされてしまう人もいることも事実だから。
わたしがワイルドやボードレールが好きなのは、本当に落ちぶれた最晩年を送ったことも大きいのです。ニーチェもそうですね。
「空腹は最良のソース」というでしょう。
サビシサや孤独があると、音楽や芸術や、詩歌や本の中の言葉、そして人のやさしさが本当に心に深く深く沁みるんですよ・・・
「仮初(かりそめ)の人の情けの身に染みて 眼(まなこ)潤むも老いのはじめや」
というのもあれば
「落ちぶれて 袖に涙のかかるとき 人の心の奥ぞ知らるる」
心に穴が開いていると、いろんな言葉が入ってくるよ・・・