20世紀を代表するアメリカの画家、エドワード・ホッパーのあまりにもよく知られた作品、「ナイト・ホークス」
ホッパーの絵は、仮に明るい陽光が降り注いでいても、いつも孤独と背中合わせの静寂を感じさせる。
同じく20世紀アメリカの代表的なペインター、アンドリュー・ワイエスの絵も、やはり静謐さを漂わせているが、ホッパーの作品の舞台が主に都会、街中であるのに対して、ワイエスの描くのは、都市ではない。
Nighthawks, 1942, Edward Hopper.
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この絵を観て、なにかが欠けているとは感じないだろうか?
隣り合って坐っている男女はおそらく知り合い・・・恋人同士かも知れない。
これが二人のディテイルだ。
Nighthawks (ditail) 1942, Edward Hopper. |
女がぼんやり見つめているのは、たった今、男のタバコに火を点けたマッチだろうか。
この絵になにか安心する静寂を感じるのは、まさに静かな淋しさが「そこに」あるからではないだろうか。
今の時代なら、おそらく3人の客が皆手にしているであろう携帯端末がない。
これも同じくホッパーの1927年の「オートマット」。
カフェでひとりでコーヒーカップを見つめている若い女性。
Automat, 1927, Edward Hopper. |
おしなべてホッパーの絵からは音が聴こえてこない。しずかなさびしさに充たされている。人々は孤独やさびしさを生きる上での当たり前の現象として受け止めていた。
深い孤独や寂寥はまた、それを抱く者の魂を、思索を、深めもした。
ひとりぼっちでカフェに居ても、携帯端末を取り出せば、すぐにでも「友達」と会話が始まる。そこには最早純度の高い孤独も、寂寥も、また自己との対話も存在しない。
携帯端末を持つ者が孤独ではない、とは言わない。けれども、カフェで、公園のベンチで、また帰宅途中の電車の中でドアにもたれている人のうちの誰の内面に孤独が宿っているのか、外側からは見えない。街の風景から孤独な人と淋しい人の姿が消えて久しい。
見えないのは、少なくとも見ている者にとっては存在しないも同じだ。
人の淋しさの見えない時代に生きるさびしさを、あなたは知っているか・・・
=追記=
おしなべて ものを思わぬ人にさへ 心をつくる秋の夕暮れ
誰の作だか忘れたが、そんな古歌があった。きょうび美しい秋の夕暮れは、もの思いの対象ではなく、SNSに投稿する恰好の被写体になった。
おしなべて物を思わぬ人ばかり・・・
携帯端末は、自分のために持っているのではなくて、
返信削除半分は、他人のために持っています。
>おしなべて物を思わぬ人ばかり・・・
物を思わないのではなくて、
携帯を持っている僕は、
Takeoさんとは違うことを思っています。
自分が思うことが「物を思う」であり、
他人が思うことは「物を思わぬ」であるなんてほど図々しくはない、
それだけですよ。
僕はたいして出来がいい人間ではないから、
自分の外部にいる他人の必要性を感じていて、
だから自己閉塞に陥らないで済む。
世の中には、多くの好き嫌いが飛び交っているけれど、
自分の好き嫌いも、他人の好き嫌いも、本質的には等価です。
自分の好き嫌いをアピールしたいときには、
当然に、他人の好き嫌いも認める前提がある。
でもなぁ、まぁ、自分の話、ってのは、
非常識だから認めてほしいんだけどねw。
>携帯端末は、自分のために持っているのではなくて、
削除半分は、他人のために持っています。
ということは、みんなが半強制的に持たされているということですか?
また「僕は持たないよ」は通用しない社会なのですか?
>僕はたいして出来がいい人間ではないから、
自分の外部にいる他人の必要性を感じていて、
だから自己閉塞に陥らないで済む。
「他者の必要性」と、「携帯端末の必要性」に関連の必然性はあるのでしょうか?
>自分の好き嫌いも、他人の好き嫌いも、本質的には等価です。
自分の好き嫌いをアピールしたいときには、
当然に、他人の好き嫌いも認める前提がある。
例えば、「戦争」が「客観的に、絶対的に、不必要なもの」だとしたら、「戦争肯定論」「やむをえず説」もやはり「戦争反対」と等価ですか?
極論かも知れませんが。
>自分が思うことが「物を思う」であり、
他人が思うことは「物を思わぬ」であるなんてほど図々しくはない、
それだけですよ。
これに関しては、「わたしは差別する者である」と明言しています。
こんにちは。
返信削除Nicoさん、この形はとても良いと思います。Nicoさんが取り上げた絵や写真に、意見を付けると鑑賞眼がなくても成る程と楽しめますから。
一冊の本として出して欲しいですね。
多分、これまでに無い独特の世界が“現れる”ように思います。
出版社に持ち込んでみてください。
こんばんは、yy8さん。
削除yy8さんは、絵の投稿がお好きのようですね。
手持無沙汰な深夜のカフェ、食堂。
でもその頃は、外から人と接触するには公衆電話しかなかった。
公衆電話だって、どこにでもあるというわけではない。
新聞を広げるわけでも本を読むのでもない。
ただ「無為」
しかしまだ人間の内面は、底の見えない井戸のような奥深さがあったように思います。
今のように表層的ではない人間の内奥。
>Nicoさんが取り上げた絵や写真に、意見を付けると鑑賞眼がなくても成る程と楽しめますから。
といってもこれはあくまでもわたし個人の意見であり視点であって、ましてこういう斜に構えた見方を好む人はyy8さんくらいのものだとおもいます(笑)
誰にでも芸術作品を自分なりに解釈することができるということです。
そこにはただ視る者の(内面の)眞實があって、客観的な正しさは問題にされません。作品はひとつの触媒です。
たのしんでもらえてなによりです^^
こんにちは、Blueさん。
返信削除上の絵は、お客さんとマスターとの距離感がいいですね。お客さん3人は、黙っていようが話しかけようがどちらでもよくて、黙って静かに過ごしても、それを貴重な空間として楽しんでゐる感じがします。
「貴重な淋しさ」「貴重な退屈」という時間は、実際ずいぶん人間から奪われたと思います。そういう時間が嫌いな人(そういう時間が怖い人)にとってはラクになったのでしょう。そういう時間から逃避できるやうになったのだから。プラスチックの板からは情報が溢れてをり、淋しさや退屈を感じるヒマを与えないほどです。
以前、リビングの窓際の床で、長い日向ぼっこをしている息子に「何してんの?」と訊いたところ「うん、たいくつしてる。」と笑顔で云われたときはちょっと感激したものです。
>きょうび美しい秋の夕暮れは、もの思いの対象ではなく、SNSに投稿する恰好の被写体になった。
:さうだね。握りたての寿司や、テーブルで湯気を立ててゐる出来立てのパスタやステーキも撮影の対象だし、そうこうしているうちに、せっかくの料理がまずくなってしまうのは、板前さんやコックさんにとっては残念極まりないことでしょうね。
SNSに投稿することに忙しい(フリをしている)のは、ひとつに「自慢したいから」というのと、「孤独な自分に自信がないから」というのと、「淋しさを忘れたフリができるから」、ではないかな。
わたしは、このプラスチックの板で、この記事を読んでゐるし、こうしてコメントを書いてゐますから、その道具にはそこそこ感謝しています。ではいったん電源を切ります。
こんばんは、瀬里香さん。
削除そうだね。この男女が恋人だとしても、なんというか、心地よい気怠さのような空気を纏っているようです。
>リビングの窓際の床で、長い日向ぼっこをしている息子に「何してんの?」と訊いたところ「うん、たいくつしてる。」と笑顔で云われたときはちょっと感激したものです。
う~ん。蓋し名言!流石瀬里香さんの息子(笑)
前にも書いたけど、「しないでいられる」能力について、イタリアの哲学者が書いています。
「しないでいられる」って、かなり高等な精神活動だと思います。そろそろ人間もそんな風に「進化」しないものでしょうか。
>「孤独な自分に自信がないから」
つまりみんなと同じことをしていないと安心できないということなのかな。
いつも思うんだけど、「人と同じことをしていて恥ずかしくないのですか?」これは「個性の尊重」なんて言うようなことではなくて、もっと生理的な次元での話で、たとえば道で同じ服を着ていたり、同じバッグを持っている人とすれ違うと「あ、同じだ!恥ずかしい!」って感じませんか?(苦笑)
>ではいったん電源を切ります。
はい。懐かしい静寂に包まれてください。
お久しぶり。
返信削除Takeoさんは、絵も好きなのですよねー。
でま、携帯を持っている人の質も変わったなと思う。
ネットの記事で読んだけど、ゲームの世界、言わばスマホの中の世界が現実で、この世界は虚構だと考える人が出て来ているようですね。
現実の転換、スマホの中の世界こそが基準であり中心〜ここまで来れば、もう、スマホは世界を支配した。と言ってもいい。
僕は、ゲーム障害とか詳しくないので、こう考える人がどれだけいるのか知りませんが、だんだん増えていくでしょう。
電車の中でゲームしていて、止められると怒る人は、その予備軍かな。
ゲームの世界=その人の現実ですからね〜。
スマホやら、ITに支配されてしまう未来、どう考えても美しくない。
Takeoさんみたいな人が増えてくれれば、と先の記事を読んで思いましたよー。
そういえばSNSに投稿する為に、美術館入るなり、撮影禁止の作品前にパチパチやる輩がいるのですよねー、何回も見た。
本末転倒〜。
こんばんは、okiさん。
削除>SNSに投稿する為に、美術館入るなり、撮影禁止の作品前にパチパチやる輩がいるのですよねー、何回も見た。
去年一度だけ、7年ぶりにフェイスブックの友達に連れられてBunkamuraへ行ったときにはそんな光景はなかったですね。
2002年頃から2008年頃まで、わたしに「親友」と呼べる人がいた頃は、殆ど毎週のようにどこかの美術館に行ってたけど、まだ「スマホ」なんてなかった時代で、携帯電話で写真を撮ることは出来たけど、美術館で写真を撮っている人を見たことはありません。
okiさんの話を聞くまでもなく、今はそうなんだろうなと思って、仮に一緒に行く人がいても、もう美術館はいいかなって感じですね。
とても落ち着いて絵を鑑賞出来そうにないから(苦笑)
>スマホの中の世界が現実で、この世界は虚構だと考える人が出て来ているようですね。
話し半分としてもすごいことですね。そういう人がまだごく少数なら「障害云々」と言われるけど、「彼ら」が大半になるとそれが逆にノーマルになる・・・
>もう、スマホは世界を支配した。と言ってもいい。
そう思いますよ。厳密には人間を支配した、かな。
>Takeoさんみたいな人が増えてくれれば、
ははは、ないない!中世ならわたしは異端審問にかけられますよ。
okiさんはわたしほどの嫌悪感を持っていないので、美術館に行けていいですね。