幻肢痛、というのをご存知でしょう・・・」
六十を越した精神科医は目の前の男性に尋ねた。
「ええ、詳しいことはわかりませんが、手や脚を失ってしまった人が、あるはずのない手や脚の痛みを感じる、というような・・・」
「ええ、総入れ歯の人が歯の痛みを感じるということもあります。
これは失われた肉体の一部が痛みを感じるという現象ですが、ひょっとして人間の魂にも似たようなことが起こるのではないかと考えたのです」
「と、いいますと」
「あなたは外に出られないという。あなたが若い頃に通い慣れた場所も、思い出の建物も、みな無くなってしまった。昔ニューヨークで、ある女性が・・・これはその人の樹ではないのですが・・・アパートの窓からいつも眺めていた樹が切り倒された時に意識を失って、何年もその状態が続いたという話があります。自分の身体だけではなく、愛着のあるものが失われた時に、その人の魂の、それに対応していた部分が同時に消滅する、ということは、十分に考えられることです」医師は穏やかに話した。
「わたしはこの街で半世紀近く生きてきました。しかしもうどこへいっても、あの頃のままだという建物も、懐かしいと感じる場所も見つけることができません。この街で生まれ、この街で何十年も生きて来たといっても、実際には、今朝空港に降り立った異邦人と全く変わるところがないのです」そういって男性は苦い笑いを噛み締めた。
「つまり、あなたは現実には手も脚もあるが、魂の手足を失ってしまっているのです。そして外に出ると、その失われた手や脚が痛む。なにしろかつてその脚が歩いていた街並みも、その手が触れた樹々も、馴染んだ喫茶店のドアや椅子も、ビルの階段の手摺も、みな失われてしまっているのですから」
「つまり、幻肢痛、この場合先生の言う心の幻肢痛は、無いのに痛むのではなく、無いから痛む、ということでしょうか」
「ええ。無いものが痛みを感じるというのは理屈に合わないと言われるかもしれませんが、哀惜の感情が痛みを伴う。失われているものの痛みなのです」
男性は深く息をつくともう一度医師に尋ねた。
「それではやはりわたしはもう治らないということでしょうか」
医師は眼鏡を直しながら静かな口調で「残念ながら。たしかに薬物によって幻覚を見ることくらいは可能です。けれどもそれは所詮幻であって現実ではない」
「・・・・」
「考えられる方法としては、あなたの脳から「過去の記憶」を消してしまうこと。そして、今、この瞬間のみに生きるようにすることくらいでしょうか。そうすればあなたの失われた魂は元通りになるでしょう。いや、より正確には、魂を持つ必要がなくなると言った方がいいかもしれません。あるいは・・・」
「あるいは?」
「いや、非現実的なことですが、人工冬眠させていつの日かタイムマシンが完成したときに目覚めて、あなたの過去にもどる。つまり過去を手に入れるために未来にゆくのですが、これはまぁ、お伽噺として聞き流してください・・・」
「お話し、よくわかりました。わたしの過去、失われた風景、消えてしまった街並みとともにわたしの手も脚も・・・わたしの魂の手足が無くなってしまって、わたしは外を歩くことができなくなってしまった・・・」
「それで、よくよくお考えになられてここを訪ねた」
「ええ」
「お気持ちは変わりませんか?」
「もちろん、穏やかな気持ちとはいえませんが、わたしは最早この世界に属してはいないと感じています。このような格子なき牢獄・・・一生外に出ることができないような生活にはもう疲れました」
医師はふと窓の外に目をやる。木々の緑が初夏の風にそよぎ、光の粒を散らす。
「あなたがこの申請をされてからちょうど3年が経ちました。その間にも街並みはみるみる変わっていきました。今度の議会では知事の推進する、都市の街路樹をすべてプラスチック製にするという法案が提出されたようですが、どうやらこれも決まりそうです」
男は顔を上げ、かすかに微笑みながら「わたしは土に、自然に戻りたいのです」
「わかりました。安楽死法及び自殺幇助法にもとづくあなたの申請は承認されました。それであなたは当センターではなく、ご自宅での最期をご希望ですか?」
「いえ、海でも、また深い山の奥でも、自然の残ってるところで、生を終えたいと思っています」
「そうですか。それでは帰りに書類に署名をして、許可証と薬を受け取ってお帰り下さい」
「いろいろとありがとうございました」
「3年間、よく辛抱されましたね。おめでとうございます。よい旅を」
© Takeo
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