2020年7月1日

反・世界


世界を、人間存在というものを徹底的に軽蔑し、この世を唾棄すべき「穢土」と見做しながら、尚生き続けることは可能か?

「過去」とはいわば「いま・ここ」に対する「反・世界」である。けれども、それは完全に喪われたものであってそこに生きることはできない。

世界とは「反・自己」である。であるなら生きる方途として世界内に「反・世界」を作り出すことは可能か?



居 眠 り て 我 に か く れ ん 冬 ご も り  蕪村

これは安永四年(1775年)蕪村六十歳の時に詠まれた句で
『日本の文学 古典編 蕪村集 一茶集』の解説によると

「我にかくれん」という表現が面白いが、その意味は「汚れたる憂き世の我を忘れて、暫く清浄の境に遊ばんという心なるべし。我を客観に見るがゆえに我にかくれんと言ふ」(正岡子規『蕪村句集講集』)ということであろう。
眠りの中に現実を遮断した隠逸境を見出そうとする老荘的な文人趣味の句である。
蕪村が私淑したと思われる漢詩人服部南郭に「寐隠弁」(びいんべん)という一文がある。世俗の中で生活せねばならない者にとって、寐(眠り)こそ大いなる隠逸境であり、「思いもなく慮りもなく」夢の中では鳥とも魚ともなって自由に飛翔・遊泳することができるのではないか、と南郭は「寐隠弁」中で主張している。

・・・云々とあるが、「眠ることで、自分の内部に隠れ込む(逃げ込む)」という、頽廃的・ロマン派的な奇想に惹かれる。
この句では、眠ることによっていったん彼の魂はその身を離れ、虚ろになり、そこに横たわっている己のからだを、あたかも「隠れ家」のように見做して、離脱した魂は再びその内側へ潜り込んでゆく。ちょうど寒い外から帰って来た猫が炬燵に潜り込むように。

上記の解説と呼応するものとして、啄木の

「混み合える電車の中にうずくまる 
 ゆうべゆうべの われのいとしさ」という歌が思い出される。



また蕪村には同じ安永四年作の

冬 ご も り 壁 を こ こ ろ の 山 に 倚(よる)という句があって、同書の解説には

服部南郭に、「斎中の四壁に自ら山水を描き、戯れに臥遊の歌を作る」と題する長篇詩がある。南郭はその詩において、書斎の周囲の壁に水墨の山水画を描き、書斎を自らを容れる大自然と仮構し、その中で臥し且つ眠って、ひとり別世界に遊ぶ空想に耽ると詠んでいる。
南郭の詩は、もともと、老病のため故郷に帰り壁に山水を描いて臥遊したという、南朝宋の宋炳(そうへい)の故事(『宋書』宋炳伝)によっているが、蕪村のこの句は、宋炳から南郭へと受け継がれたこの「臥遊」の俳諧化に他ならなかったのである。
(解説 揖斐高)

句そのものとしては、「居眠りて我に隠れん」の方がおもしろいと思うけれど、
この作のモチーフとなった宋炳の故事が非常に興味深い。

「居 眠 り て 我 に 隠 れ ん 冬 ご も り」では、逃げ込むのは(姿としては)自分の内部、あるいは(状態としては)夢の中であり
「冬 ご も り 壁 を 心 の 山 に 倚 」は、四方にうつくしい山水を描いた「書斎」=「部屋(自室)」である。

醜悪な外界を遮断して、部屋の中に隠れ棲み臥遊する・・・わたしもまた二十一世紀日本の宋炳である。

現在のテクノロジーであれば、部屋の壁をスクリーンに見立てて、いかなる「映像」をもそこに現出させることも可能だろうし、ゴーグルを付ければ、より容易に「別世界」を「体感」できるだろう。
けれども、宋炳ー南郭ー蕪村らは、夢の中に遊び、または自らの想像力によって、壁に描かれた不動の山水にいのちを吹き込んだ。
「臥遊」、これは寧ろヴァーチャル・リアリティーの対極にある心身の「構え」であり、存在の境地であろう。
そしてわたしは、このようなひきこもり方を「典雅」だと思うのだ。

ふと、ジャック・ケルアックの本のタイトルを思い出した。


" All human beings are also dream beings. " 


"I'm a lonely independent man with no ties, no hopes, bleak tricks to make a living, full of death, indecision, sedentary laziness and worst of all
I don't know why I'm on earth and what I should do to satisfy not any craving inside myself but some kind of craving in the sky, the lostcloud sky. "

Jack Kerouac, 'Book of Dreams' 1961






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