2020年7月29日

「自分の言葉」とは何か


昨日、久し振りにメールを書いていたら、文中に下線が引かれている箇所がある。見ると、文字が重複している。「しかししかし」と。これは送信する前に読み返せば気づくことだ。確かにわたしは比較的長い文章を書くことが多いので、書いたものを最初から読み返すという労を厭うことがままある。その場合は、あいては「しかししかし」と書かれたメールを読むことになるのだが・・・

最近のコンピューターは以前にもまして急速に不自由になっていると感じる。
先日やはりメールを書いていて、「いづれにしても」と記入したところ、「いづれ」というのは旧仮名遣いで現在は通常「いずれ」という用法が一般的であるとかなんとか。
大きなお世話余計なおせっかいである。



前のことになるが、アマゾンのレヴュー欄で、二階堂奥歯の『八本脚の蝶』の書籍版(2006年刊)に新たなレヴューが書かれていて、書籍ではブログの一部が削られていることと、彼女=二階堂が、疲れて帰って来て書いたであろう日記の誤字(タイプミス)が修正されていることに、その女性レヴュワーは疑問を呈していた。
そのような視点に感心し、深く共感するとともに、やはり『八本脚の蝶』を愛読している人らしさのようなものを感じた。

正しくは「シモーヌ・ヴェイユ」と書くべきところを「ヴァイユ」と書かれているので、「正す」ということが本当にするべきことなのかという疑問がある。「正確を期する」というのであるならば、寧ろ「筆者自身の誤記のままに、間違いのままに」書籍化すべきであると思うのだ。繰り返すが、そのレヴュワーは、彼女が「会社から疲れて帰って来て書いた(であろう)日記・・・」と、その「誤記」の背景にまで想像の射程を展げている。「誤り」には誤るだけの理由があるはずだと。それを一律に機械的に「『ヴァイユ』は誤記」とすることに、そのレヴュワー同様の抵抗を覚える。

「しかししかし」とかかれたメールを読んだJunkoさんは、ああ、Takeoは手抜きをしてるなと不快に感じるかもしれない。感じてあたりまえだけれども、しかししかし、「しかししかし」とタイプしたのがその時のありのままのTakeoであるともいえる。

「われ過つ 故にわれ人也」

今は「ここの文字が重複していますよ」「これは旧い仮名遣いですよ」という段階だが、有無を言わさずに間違いを一掃されるようになったら・・・その時はわたしはコンピューターから離れるだろう。

人間らしい誤りを強制的に矯正修正訂正すること。誤字の背後に「きっと疲れていたんだな」というごく自然な想像を巡らすことを止めさせること・・・それをこそ、真の(人間の)「愚かしさ」という。


ここで気の利いた引用でもしたいところだが、今日は、敢えて止めておく。

「人間が機械に勝っている点は何か?いまだ「まったくなんにもしない機械」を作ったことがないこと」

それと同様に、「しょっちゅう間違える機械を作ったことがないこと」

これこそが人間の尊厳の最後の砦と言えるだろう・・・



ー追記ー

引用は止めておくと言ったが、やっぱり一言。

”A point of view can be a dangerous when substituted for insight and imagination.” 

Marshall McLuhan

「 固定した視点というものは時に危険である。それが「洞察力」と「想像力」に取って代わる時 」

マーシャル・マクルーハン


この場合の「固定した視点」とは言うまでもなく(この文脈でいうならば)「進歩」「便利さ」「正確さ」=「善」というPoint of view である。













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