2020年7月7日

2018年9月15日投稿「傷」(再掲)



イタリアの現代アーティスト、ルシオ・フォンタナ。
同じように傷だらけではあっても、わたしの傷はこんなに「キレイ」じゃない。
黒ずんだ血を滴らせ、傷口は汚れ、膿み爛れて腐臭を放っている。


人がわたしを傷つけるとき、彼らは決して真顔ではない。彼らは無表情だ。
「心が傷つく」という発想すら持ってはいない者たち。傷ついた人間を眺め、口元を緩める者たち。そして彼らにしても、数分後には「誰か」を傷つけた記憶さえも失っている。



デヴィッド’チム’シーモアの撮った少女。(1948年)。強制収容所から解放され、保護された施設で、「あなたの家を描いてみて」と言われて描いたのがこの「絵」だ。
(「家」といっても、「あなたの’ホーム’を描いてみて」と言われたので、建物としての「ハウス」ではなく、寧ろ、「家庭」「ファミリー」「生活」といった広い意味を指すのだろう。これは爆撃に遭った家ではない・・・)

今のわたしの頭、そして胸の中もこれに近い。「混乱」「混沌」「崩壊の予感」「喪失」「悲しみ」「苦痛」「不安」「恐怖」「制御不能」「寄る辺のなさ」「絶対的孤立」「無援」「言語化不能」「説明不能」・・・



「いのちの電話」にかける。1時間かけて繋がらず。
最近はほぼ一日おきに掛けている。
体力がまったくないので、横になって約1時間ほど話してもクタクタになる。

昔から孤独だった。
約20年前、30代の頃、話し相手が欲しくて、年に100回以上「いのちの電話」に掛けたこともあった。








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