2020年7月10日

侵害者としての「他者」


われわれが現実に自分の「自己」を ── あるいは他人と通分不可能な「この私」を ── のっぴきならないアクチュアリティとして経験する場合には、それは前項で述べたような、いわば相対論的な「関係」を絶対的に超越してしまう。そのような場合には、自己は自分自身を、世界の、あるいはアクチュアリティの、中心そのものとして経験している。中心は、中心以外のいかなる点ともけっして同列には置けない「特異点」であり、等質空間にとっての「異物」である。中心としての自己は、自分以外のすべてのものを交換可能な多数性の相において見ている半面で、自分だけは絶対的に交換不可能な単独者の相において見ているといってよい。そしてこれは十分逆説的なことだが、このような単独者としての自己にとってのみ、自分がたまさかの関係を持った他人もやはり単独者として、絶対的な他者として姿を現すことができる。絶対的な他者とは、自分がそれである世界とは異質な「非世界」、自己がその中心ではありえない「異界」を生きる人である。他人はそこで、単に自分と「別の人」であるのではなく、「関係としての自己」「世界としての自己」を構成するもろもろの関係性・世界性の中への回収を拒むという意味で、「関係外在的」「世界超越的」な存在、つまり「絶対の他」(西田幾多郎)としての異物的なアクチュアリティを示してくることになる。

木村敏『関係としての自己』第Ⅳ章「自分であるとはどのようなことか」(2005年)100-101P
(下線・太字Takeo)



木村敏の著作は哲学書ではなく、あくまでも「精神病理学者」としての立場から考察され著されたものである。

他者とは、「わたし」を侵害する存在である。
少なくとも現在のわたしにとって他者とは「異物」に他ならない。
であるからこそわたしは執拗に、「全き抱擁」という形での「自他の別」の解消を望むのだ。

他者との相違とは、(現在の)わたしにとって「亀裂」「断裂」「分断」「分裂」に他ならない。そして言うまでもなく、相違のない他者というものは存在しない。



「この世の出来事を承認しないこと、それはこの世が存在しないことを望むことである。 この世界が存在しないようにとねがい求めることは、今このままのわたしのような者が全体であるようにとねがい求めることである。」

ー シモーヌ・ヴェイユ 「カイエ」










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