最近、弟が早めに帰った後、わたしが起きてくると、母が部屋から出てきていない時がある。普段は弟が帰るのとほぼ入れ替わりにわたしが起きてくるか、そうでなくても、弟の食事の後片付け、洗濯、あれやこれやの仕事がある。
以前は弟が帰ってしばらくしても部屋から出てこないと心配していたが、この頃はそうではなくなった。母も、わたしも、生きられる時をとうに過ぎている。ちょっと休んでいる間に静かに息を引き取れるのなら、それはむしろ幸運幸福といえるだろう。
仮に母が、眠ったまま再び目覚めることはないと知った時、わたしはしばらく母の傍にいて、無言でこれまでの長い長い間の感謝と、わたしがわたしであったことの謝罪をするだろう。
そして誰にも、なにも告げることなく、電車に乗れるだけのお金をもって遠くの山に行き、そこで自ら命を絶つだろう。
母の呼吸が止まった時、わたしの人生も終了したのだ。
図書館から借りている資料もそのまま。
弟や父に、その他しかるべき場所へそのことを報せることもしない。
すでにわたしの声はうしなわれている。
それはおそらく絶望ではない。
それはおそらく深い悲しみではない。
わたしという人間は、既に、いないのだ。
そういうことは社会の一員として通用しないというような声がするとしたら、まさに愚の骨頂である。
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