2020年7月22日

われ思う ポール・ヴァレリー「カイエ」



” われわれは《存在》を持つ以上に精神を持ち、単にわれわれだけであるのに必要な以上に精神を持つらしい。もし私が誰かを愛するにしても、私はその人を嫌うことも出来るだろうと抽象的に考えることができるし、誰かを嫌うにしても、同じ能力を持てる。しかし私は思考がその可能な判断の全分野において、その叡智的結合の世界に於いて、発展するのを嫌がるような、そういう一個人であり、一人の特殊な人間である。
私は自分の精神について、自分の身体、顔、経歴と同じ《特異性》でないものは知りたくない。なぜなら、不公平ということは、各生者に免れ得ないことだから。
生命は彼ら各自の裡に認識を生み出し、各自に自分の一般性の充溢を拒む ── ”





” われわれの身体と、われわれの趣味でさえ、われわれの精神にはしばしば、何かしら普遍的実質に妙な具合に押し付けられた偶発事と見えてくる。鏡の中のわれわれの顔も、われわれにとっては、まったく隅々まで決定された他人の顔であり、この他人に、われわれの内部にある無限に様々な形態を永遠に作り出すものが、不可解な魔術によってつながれているだけのことなのだ








” 私としては、己の理念の中に孤立する者の持つ意志、否、その倨傲をさえも偏愛する者であることを告白しておく。”






「彼(ヴァレリー)の友人に求めたものが、あまりに「非人格的」な純粋な精神の交流であったため、友情はヴァレリーの精神世界の理念として最後まで重要な意味を持ち続けながらも、実生活ではその十全な実現をみなかったように思われる ── 」







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