2020年7月23日

「ノーマル」であるということ


Steve Martin 


Buster Keaton

Harold Lloyd 


“Nobody realizes that some people expend tremendous energy merely to be normal.” 
- Albert Camus


昔、NHKの英語講座で、コロンビア大学の留学生に英語を教える授業がそのまま放送される(勿論録画)番組があって、ある時「ノーマル」という言葉を使った留学生に対して、教師が「何が、誰がノーマルであるかなんて誰も決められないわよね。この場合は、「アベレージ」という言葉の方が適切だと思います」と言っていた。

上記のカミュの言葉にも同じことが言えると思う。
しかし「人と同じように振る舞う」ことにエネルギーを使うなんて。
世の中にもっと「奇人」「変人」が沢山いればどんなに生きやすくなるだろう。

わたしは「同質性」というもの、「均一性」というものにある種の恐怖を伴った不快感を覚える。「奇人」「変人」がそうである所以は、彼ら/彼女らが、「多く」と似ていない=違っているからだ。

カミュの言葉が事実であるにしても、わたしにとってそれは特別の意味を持たない。
そのような努力は不要だと思うからだ。

なぜなら「ノーマル」でないこと「平均的」でないことの方が存在として数段上なのだから。

常識的な人間がつまらないのは以下の理由からだ。

「常識とは二点間の最短距離を意味する」

ラルフ・ワルド・エマソン



追記(乃至蛇足)

もしわたしのブログに「真の読者」がいるとすれば、

「常識とは二点間の最短距離を意味する」というエマソンの言葉と、先に引用した木村敏の
「常識とは決して外面的・公共的な規範ではなく、深く内面的間主観性に関わる状況感覚のことなのである」
この二つの記述の間に矛盾があると考える者はひとりもいないと確信している。









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