2020年7月24日

何故自己を肯定するのか?何故肯定しなければならないのか? 


奈々子に
          
赤い林檎の頬をして 眠っている奈々子
お前のお母さんの頬の赤さは
そっくり 奈々子の頬にいってしまって
ひところのお母さんの つややかな頬は
少し青ざめた

お父さんにも ちょっと酸っぱい思いがふえた
唐突だが 奈々子
お父さんは お前に多くを期待しないだろう

人がほかからの期待に応えようとして
どんなに自分を駄目にしてしまうか
お父さんは はっきり知ってしまったから

お父さんが お前にあげたいものは
健康と 自分を愛する心だ

人が人でなくなるのは 自分を愛することをやめた時だ
自分を愛することをやめる時
人は他人を愛することをやめ 世界を見失ってしまう
自分があるとき 他人があり 世界がある

お父さんにも お母さんにも 酸っぱい苦労がふえた
苦労は 今は お前にあげられない

お前にあげたいものは 香りのよい健康と
かちとるにむずかしく はぐくむにむずかしい
自分を愛する心だ

ー吉野弘





ひとが

ひとでなくなるのは

自分を愛することをやめるときだ。


吉野弘 -奈々子にー

「自分を愛すること」。もうずいぶん長く聞いたことのないような、または生まれて初めて聞くようなふしぎな言葉だ。
この言葉は私には、まるでラテン語か何かのように響く。にもかかわらず、この言葉の中に、久しく忘れていたあるなつかしいものを感ずるのだ。
わたしには、自分を心から愛したおぼえがない。

自分で自分の身体に泥をなすりつけるようなことばかりして来た。

時には負いきれぬほどの過大な要求をし、時にはわれとみずからを路傍へうちすててきたりした。


自分を愛すること。


自分を愛すること。


一体それはどういうことなのだろう。


『石原吉郎詩文集』「一九五六年から一九五八年までのノートから」(2005年)


2019年11月30日付け「Junkoさんのコメントへの返事に代えて…」再掲





わたしと普通の人たちと距離は、いまでは吉野弘と石原吉郎との間の懸隔にも似ている。いまのわたしには、吉野の言葉はどうしても理解不能だ。
そして更には、いまのわたしはこの詩のような「吉野弘的なもの」を嫌悪さえしている・・・

いったい「誰もが(自ら)愛するにあたいする自己を持つ」という前提はなにを根拠にしているのか?

わたしがデイケアに行くのを止めたのも、間接的には「認知行動療法」や「WRAP」(元気回復行動プラン)といったプログラムに参加してはその都度反対意見ばかり述べていることに意味を見いだせなくなったからだ。

わたしは自分を愛することはできない。
そのような努力は自分に都合のいい「自己欺瞞」にしか思えない。
そして自分をあまり好きではないという人間に比べて、自分を満更嫌いでない人間というものをどうしても信用できず、
そもそも自分を愛して(認めて)いいという許可を自分に与えるつもりもないのだ。


人は自分を嫌うものを嫌い
自分を愛する者を愛するという(わたしから見れば極めて奇っ怪な思考様式を持つ)ということを承知で、わたしはこれを書いている。

身も蓋もない言い方をすれば、自己愛、自己肯定、自己承認・・・なんでもいいが、詰まるところ、種の(個ではなく)保存本能に縫着するのだろう。














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